「中学受験に失敗したら人生は終わり」糸井重里さんへの取材がきっかけで不登校の「呪霊」が解けた ソーシャルアクティビストの生き様ドキュメンタリー石井しこうさん(不登校ジャーナリスト)

この記事は、上記インタビュー動画の書き起こし記事です。

不登校ジャーナリスト  石井しこうさん 
聞き手・撮影  山田英治(社会の広告社)

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石井さん)石井しこうです。現在の肩書は、不登校新聞の代表理事、それから不登校ジャーナリストになるかなと思います。

山田)不登校新聞の元々編集長をされていたということですね。それはどれくらいされていて、「不登校新聞」はどんなメディアだったのですか?

石井さん)不登校新聞は日本で唯一の不登校の専門誌ということで、不登校の親御さん向けに出したメディアです。月2回で8ページの小さな新聞なのですが、私は2001年19歳の頃から新聞に携わり始めて、2006年の時に編集長になって以来、十何年編集長をやっていましたね。

山田)そもそもの話をうかがいたいと思うのですが、石井さん自身が不登校とおっしゃっていましたがどういったきっかけで、いつ頃不登校になられたのでしょうか?


【中学校受験で学力主義になり、受験の失敗で自分をさげすむことに】


石井さん)私が不登校になったのは、13歳の頃なので、中学2年生ですね。冬だったと思うのですが、ある日自分が突然もう学校に行けなくなって、それを行きたくないと親に伝えたことからスタートしました。きっかけはなかなか難しいのですが、不登校をした時から2年ぐらい前にさかのぼって、小学生の時に中学受験をしようと思ったのです。この2年間の中学受験があって、そのストレスが強くて、中学受験に失敗したことが多分、不登校の大きな要因になったかなというふうに思います。

山田)小学校の時ということですよね?

石井さん)小学校です。小学校の時に受験があり、それに失敗しました。これは頑張ったことが叶わなかったということよりは、勉強していい人生をつかむ、勉強をしていい未来をつかむというところ(には)もう戻れないような失敗をしてしまったのだというか、人生の本当に落伍者になってしまったのだというふうな気分になったということが、一番大きなことだったかなという感じですね。

山田)私は中学受験という経験がないですけれど、人生の落伍者になってしまったという意識になるぐらい、勉強しろみたいな親のプレッシャーがあったということですか?

石井さん)親はそんなことはなかったです。教育ママでもなかったですし。私が塾に入ったのは小学5年生です。それまでは野球が好きで、ヤクルトスワローズが好きだっただけで、別にそんなこと考えたことがなかったのですが、たまたま入った塾が進学塾で、とてもスパルタで暴力を振るっていましたし、長期間の合宿では1日十何時間ハチマキをつけて絶対合格みたいなことをやっていました。

その中で私はいつの間にか学力主義者というか学歴差別者になったのですね。学歴のない人間はもう幸せになれない。塾でもそう教えられていましたし。差別って他人のことをさげすむことですけれど、受験の失敗によってそれが自分に向かっていっちゃったのですね。2年間の受験の失敗で自分にはもう人生がないというふうに思わされてしまったのですね。

山田)志望校に落ち、地元の公立中学校入って、それが時間差で2年生の時から不登校ということですね

石井さん)そうです。挫折感が強い中で、いきなりドーンと落ちるわけではなくて、中学校の中でもいじめがあったりとか、先生との相性が悪かったりとか、様々なことが重なっていって、自分の中でも何が発端なのかが分からない状態で、もう気がついたら精神的に追い詰められてしまったという状態ですね。

気がついたら受験とか、いじめだとかということよりは、どうしてか分からないけれども、毎朝すごくイライラし、むしゃくしゃしている日と、逆にすごくハイな状態になっている日がありました。よく覚えているのが、中学校に向かう途中の道で、坂道がいきなりぐにゃぐにゃって曲がって見えちゃうのですよね。今考えれば、ストレス反応だったと思います。

そういう日々を送っていく中で、学校に行きたくないくらいストレスの要因があるなんて思ってもみなかったです。とにかく毎日辛かったです。それがある日爆発して、母親に学校に行きたくないと言ったら、思った以上に自分が行きたくなかったみたいで、喋りながら号泣してしまったのですね。中学2年生の男の子がいきなり泣き出すわけなので母親もびっくりしちゃって「分かったよ」という形で、不登校というか、その日休むということを認めてくれたのが、私の不登校のスタートです。

山田)原因は何だろうって探って、探って、後ほど受験から来たのだという分析ということですね。

石井さん)そうです。

山田)その当時はストレスの原因は分かってないのですか?

石井さん)分からなかったです。

山田)何だかよく分からなかったのですね。それまでは普通に部活もされていたり、友達と遊んだりもしていたのですよね?

石井さん)そうですね。20年後の同窓会で会った時に、同級生たちからも私が突然理由もなく、いなくなったというふうに言われましたね。「何だったのですか?」みたいな。それは周りからしても驚きだったみたいですね。

山田)なるほど。そういったことがあったのですね。昔テレビの報道番組で正月とかに「今年も受験生頑張っていますね、除夜の鐘は塾で聞くのですね」と(放送していましたが)、ハチマキして「やるぞ!」みたいな、ああいう少年だったのですか?

石井さん)ああゆう少年でしたね。もうバキバキに受験勉強をやっていましたね。

山田)塵が積もってじゃないですけどそれがきっかけで、自分がダメだダメだと挫折に向かっていって、それがじわじわじわじわ効いて、中2の時に学校に行けないとなってしまったのですね。

石井さん)そうですね。

山田)それでまず1日休みましたよね。お母さんとか家族はちょっと動揺走りますよね?

石井さん)親は私がちょっと異常だったのだと感じていて、学校に2週間休みますと確か言ったのです。2週間休んだら冬休みに入るので、大体1ヶ月ぐらい休みが持てるみたいな感覚だったのですね。それでゆっくり、1か月ぐらい休みにしておいたからと母親に言われました。それで気持ちが少し楽になって、改めて全く学校に行きたくないなというのを実感したのです。

石井さん)その時は、フリースクールというのを知っていたので、このフリースクールに行きたいっていうのを親にお願いしたというのが不登校の最初です。


【フリースクールで、キテレツ大百科の「コロッケを100個買う日」を実現!】


山田)当時どうですか?石井さんの学生の頃は「フリースクール」も(当然のように)存在するという感じですか?

石井さん)全くなかったです。私は本で「フリースクール」があるという一言だけ知っていて、学校に行かない子は全員そこに集まるのだというふうに思っていました。それでとにかく自分の中ではフリースクールがあるということしか(希望の)兆しがなかったのですよね。だからフリースクールに絶対行くという気持ちだったのですね。

そこには校則もなければ授業もない、制服もない。自分たちの意思が尊重される場がある。そういう情報を見て、ユートピアかなと思うような感覚でした。学校に行けないということを自覚して「もう本当に人生が終わってしまった」と怖くなったのですが、自分にはフリースクールがあるのじゃないかというふうに思ったのがきっかけです。

山田)そういったフリースクールというのは実際どうだったのですか?

石井さん)私の場合は本当に釘が刺さるようになったと言いますか、一番合ったのが、フリースクールではミーティングといって、会議でプログラムやルールを決めるのですね。先生も子どもも全員一票ずつでディスカッションをベースに学校生活を作っていくのですが、それがすごく合いましたね。

授業も型通りの授業ではなくて、田植えとか森林散策とかお花見とか、いわゆる体験活動ってありますよね。ああゆうのも面白いですけれど、もっともっと創造的なものをやっていいということだったのですよ。そこで結構いっぱい遊んでいましたね。

山田)どんなことをやっていたのですか?

石井さん)よく覚えているのが、コロッケを100個買う日です。キテレツ大百科というアニメのオープニングだと思いますが、お皿にいっぱいコロッケがのっている絵があって、あれをやりたいなと思ったのですね。

みんなでコロッケ半額の日があるので、今でいうクラファンですね。その絵のお昼ご飯を食べたいからみんなでお金を集めました。大人からは、実際40円だけれど「1個単価100円なので、ぜひどうですか」という形で高めにお金を集めてコロッケ100個を買って、みんなで絵を作って食べるとか。

棒倒し散歩というのがあって、散歩に行って曲がり角に当たったら棒を立てて倒れた方向に行く。そうなるとどこに着くのだろうかということで、新宿から4時間くらいかけて中野に着くということをやりました。

山田)面白い。

石井さん)そういう思いついた事をやってみようみたいなことをしていました。

山田)当時YouTubeがあったら、それはネタに出来ましたよね。

石井さん)そうですね。ずーっとそういうことやっていましたね。

山田)YouTuberの人はたまにやりますよね。プリンの風呂に入ってみるとかそういう感じのことをフリースクールでやっていたのですね?

石井さん)そうです。

山田)面白いですね。その後フリースクールは卒業があるのですか?

石井さん)一応、自分で卒業したいと言ったら卒業なのですね。

山田)そうなのですか。

石井さん)私が19の時に不登校新聞社の入社が決まったので、フリースクールを卒業して辞めました。


【糸井重里さんと握手した瞬間に、自分の不登校が終わった】


石井さん)入社試験と言いますか、不登校新聞社の入社を決めたきっかけがありまして、当時から不登校新聞社でボランティア記者と関われる部分があったのですね。私は不登校の時にどうやって生きていったらいいかわからなかったので、自分が憧れている人にどうしたらいいか聞こうと思ったのです。当時若い人たちに人気があったみうらじゅんさんとか大槻ケンヂさんとかに聞きにいったのですが、一番行きたかったのはコピーライターの糸井重里さんです。

今でも忘れられないのが、糸井さんの取材は、我々10代の子どもだけで行ったのです。でもまず(我々が)30分遅刻するっていうところからスタートしました。しかも時間を間違えたのに謝りもせずマネージャーの人に怒られたりして。

その後、糸井さんが取材を対応してくれたのですけれど、私たちの話をいっぱい聞いてくれて最後に「今日はすごく楽しかったよ」と言って握手してくれたのです。私は自分の不登校の話を楽しかったと受け入れてくれたということがすごく嬉しかったのです。気が晴れたというか。私は糸井さんと握手した瞬間に自分の不登校が終わった気がしたのです。呪霊が解けたみたいに。

きっと、こういう経験をした人は不登校が晴れるなと思ったので、なにか不登校に関する情報発信をできないかなと思って、ボランティアで関わっていた不登校新聞社にお願いして、たまたま空きがあったので入社しました。もちろん入社が決まった時の入社報告の第一弾目は、親でも兄弟でも、当時付き合っていた彼女でもなく、糸井さんにメールで「この度入社が決まりました」と連絡をしました。

糸井さんからもお返事が返ってきまして「おめでとうございます。深く高く広く飛んでいってください」と書いてあって、今でもそのお返事をありがたく受け取っています。

山田)それで新聞社の社会人としての一歩が始まったということですよね。不登校新聞の記者として現場で感じられたことはありますか?


【学校に行っている時より、休んだ後の方が苦しい】


石井さん)現場に行き始めて自分の不登校以外を初めて知った時に、これは年々思っていますが、本当に不登校ってしいたげられているのだなと思いましたね。私はやっぱり「たかだか」と言いたいぐらいなのですが「たかだか」学校に行きたくないぐらいで、かなりの子が追い詰められて、自死を考えざるを得なかったというような話を何度も、何度も聞いてきました。これはやっぱり苦しいものだなというふうに思いましたね。

山田)その辺の苦しさや生きづらさは親御さんたちも、でしょうか、あるいは親御さんたちが原因を作っているのでしょうか?

石井さん)両方なのですよね。当然、親はなんで子どもは不登校になったのだろうかということで本当に苦しみますし、親は親で責められて悩むのですよね。何とかして学校に行かせようと思うわけなのですけども、それが逆に子どもを追い詰めてしまうということが多々あってですね。本当に親子心中を考えたとか。私が取材した中で、包丁を持って寝ている息子の部屋に入ったとか、そんな話もありましたね。

山田)毎年夏休みが終わる8月31日にやっぱり学校行きたくないと言って自死を選ぶ子どもたちが結構多いという話を聞いたことがありますが、そういう気持ちになる子が多いのですか?

石井さん)休み明けは確実ですね。休み期間中に学校で苦しかったことを自覚するのですよね。走っている時に似ていると言われるのですけれど、走っている時よりも走り終わった後の方が苦しさというものが出てくるようなもので、学校に行っている時より、少し休んだ時に苦しかったことを自覚して、またアレ(学校生活)が始まるといった時にちょっと勇気が持てないということで自死に向かってしまう。あるいは気づいたら不登校になるということはとても多いですね。

山田)不登校新聞としては、生きづらさを抱えた不登校生に対して、どういった意図で編集や発信に取り組まれたのですか。

石井さん)まずは不登校でも生きていけるということですよね。それを伝えるということが一番なのかなというふうに思います。本当に学校に行かなくても生きてきた大人たちや経験者がいて、「苦しかったけど大丈夫だよ」ということを伝えられたら一番なのかなというふうに思いますね。

山田)それは親御さんに対しても伝えたいところだったりするのですか?

石井さん)特に親御さんですね。不登校の本人に伝えたいのですけれども、なかなか本人には伝わらないことが多いと思うのですね。不登校でも大丈夫と言われても、お前の人生じゃないだろうと思います。だから特に親に伝えて親越しに大丈夫という雰囲気を伝えたいなというふうに思っています。

山田)今、石井さんが編集部の記者になられ、編集長を経て現在はジャーナリストというところになりますが、不登校生をめぐる状況というのは変化があったのでしょうか?

石井さん)この30年で大きく変化したと思います。私が不登校した時に比べると格段に不登校をしやすくなったとまでは言えないですけれど、不登校をある程度容認してもらえる雰囲気というものが作られてきていますね。

一方で学校が息苦しくなっているのも確実なのですね。学校が、若い頃からちょっと生きづらいな苦しいなと思うような子が増えてきていますね。そのことで(学校の)中がギューと苦しくなって外側が出やすくなったみたいな、そういう要因がありますね。

山田)人数的には不登校生は増えていますか?

石井さん)人数的には最近は増えています。不登校30万人で過去最多ですし、保健室登校をずっとしているなど数に表れない不登校というのもいるのですよね。それを合わせると大体100万人ぐらいいるというふうに言われています。

山田)いろんな不登校生向けの支援は増えてきた感はあり、この調子でどんどん進めればいいなと思っています。例えばN校のような学校もあるなど、そういった居場所が増えていくといいなと思ってはいる一方で、何か課題はあるのでしょうか?

石井さん)いや、それはもう課題だらけですね。不登校をみんなが認知するようになったとしても変わらない点があります。

それは不登校になった子の孤独感とか挫折感です。これは30年前とほとんど変わらないです。自分だけが不登校で落ちぶれてしまったとか将来はないとか今でも子どもは言うのですよね。それはやっぱり自死と裏腹の危険性をはらんでいます。これは学校に行かなくてもやっていける道筋、多様な選択肢があるということを広げていかないと不登校に苦しむ子たちは減っていかないのですよね。それは大きな課題だと思っています。


【社会と繋がれた時に気が晴れた。不登校の子たちに「誰かのためにやろう!」と言ってあげたい】


山田)昨年は「不登校生動画選手権(※)」をされていましたが、これはどういった意図で行われましたか?

※【不登校生動画選手権】 世界初開催の不登校当事者のための全国大会。動画は60秒以内。テーマは「学校へ行きたくない私から学校に行きたくない君へ」 。思いを述べる、絵を描く、風景を撮るなど表現方法はさまざま。自身の思いや創造性をぶつけられる選手権。不登校生動画選手権の受賞作品→ https://x.gd/wwnfZ

石井さん)いろんな意図があって、そこに同じように当事者で悩んでいる人や、等身大のメッセージを伝えたりなどはありますけれど、今日のお話でも改めて気づきました。私自身、自分の不登校が終わったとか気が晴れたとかは、糸井さんに感謝をしてもらえたことが社会と繋がれた瞬間なのですよね。

不登校の30万人とか100万人の人が全員糸井さんに会ったら気が晴れるわけじゃなく、その人その人なりのアプローチがあると思います。少なくとも私の中では社会と繋がれたと思いました。自分の不登校だからこその経験が役に立ったと思った瞬間に、自分の不登校への複雑な思いが消えていくので、今不登校している彼らが、自分が不登校であるが故にできることをリアルタイムにやるきっかけを作りたいと思ったことが不登校生動画選手権なのですね。

山田)なるほど、それはものすごくよく分かりますね。自分の経験が社会にとっての価値になり、面白い動画になり、イイネがついたりシェアされたりということが、自分の経験が社会と繋がった達成感となるということですね。

石井さん)そうです。

山田)それを目指していたということですね。

石井さん)そうです。

山田)実際、昨年やってみてどうですか?参加した子たちはどんな感じだったのですか?

石井さん)まさに自分の経験が発信できてよかったとか、賞状をもらえてすごく嬉しかったという話をいくつも聞きました。私が嬉しかった反応が2つあります。

1つは動画選手権で佳作をもらって賞状をもらった子が、その賞状を喜んで中学校でも校長先生に表彰し直してもらったのですね。それは自分のことをみんなの前で表彰してほしいということではなくて、私と同じように不登校を隠していた人がいるかもしれないと。でも不登校は隠すことではなくてこういうふうに表彰されたり、活躍の場に繋がったりすることなのだと知ってほしいということで、わざわざみんなの前で表彰してもらったそうなのですね。これはすごく嬉しかったですね。大会をやってよかったと思いました。

もう一つ嬉しかったのは佳作を取った子たちから「納得がいかない」と連絡が来ました。「俺のが一番よかったと思う。なんで優秀賞じゃないんだ」と連絡が来た時に、イキがいいな、たまらないなと思いました。「ぜひ受賞式に来て最優秀賞を見てください。みなさんからの判断でした」ということで返事をしました。彼は最前列の一番真ん中に座って膝を組んで体も横に向けて見ていましたね。たまんなかったですね。いいなーって、来年も会おうって思いましたね。

全体ではないですけれど結構多かったのは、例えば夕日の動画を撮ってくるとか、桜並木を撮ってきて、「あの時苦しんだけれど、きっと大丈夫だよ」というメッセージを出しているのです。

私は想像していなかったのですけれど、不登校当事者がまさに当事者に対して一番苦しかった時の自分をどう伝えて欲しかったかというと、”世界はもっと美しい”って伝えようとしていたのですね。夕日で美しい映像、桜並木で美しい映像。そこが救いだったのだ、というのは私もビックリしましたね。彼らはこういうものに支えられているし、学力だとか社会性だとか協調性だとか、我々ごちゃごちゃ考えていますけれど、本当に人を救うのは世界の美しさだったのだなと思ったら、あまりに直球の美談で私は震えました。

私がなんで動画選手権をやりたかったのかということが今日やっと分かりました。自分の中にも根がすごくあったのじゃないかなと。むしろ「不登校経験は活かしたい」というふうに不登校選手権参加の子たちにずっと言われていたのですよ。でも私は逆のことを言ったのですね。動画選手権では「誰かのために取材をして動画を作らないでください、自分のために取材してください」と言っていたのです。(でも)なにか向こう側(子どもたち)がずっとしっくりきていなかったです。

これはちょっと過激な言い方なのですけれど、結構10代の子って自分は死んでもいいと思っているのですよね。だから誰かのために何かをして人生を終えたいぐらいの気持ちでいるのですよ。でも誰かのために何かができたら生きるのに喜びが湧いてくるのですね。逆に一周回って生きていく活力になってくるのだと思うのです。

だから「私(自分)のために何かをしてください」と言うのではなくて、「よし!誰かのためにやろう」と言ってあげた方が私も嬉しかった(スッキリした)のかもな、本人(子どもたち)にそう伝えた方が良かったのかなと。そうすると明確になりますよね。


―不登校の経験が誰かのためになることを
   彼らにもっと伝えていきたいー
     不登校ジャーナリスト  石井しこう


不登校新聞のサイト https://futoko.publishers.fm/

不登校生動画選手権の受賞作品はコチラ https://x.gd/wwnfZ

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