#86 古代の都のトイレ事情

現代の水洗式のトイレが普及していくのは1923年の関東大震災以後のことで、それまでは汲み取り式のトイレが一般的だった。鎌倉時代から江戸時代にかけては、トイレに溜められた糞尿は肥料として利用された。

また、トイレがかつて「かわや」と呼ばれたように、川の上に小屋をつくってそのまま河川に垂れ流す水洗式のトイレも一般的に使用されていた。一部の縄文時代の遺跡からは、川につくった桟橋のようなトイレ跡とみられる遺物が発見されている。
古代の都もその例外ではなく、貴族の邸宅には人工的な水路が引かれ、そこに排泄物を流していたと考えられている。貴族は直接川で排泄をするのではなく、「樋箱(ひばこ)」とよばれる木製の箱に用を足し、家来が水路へ捨てにいっていたようだ。現代の「おまる」である。

排泄物の垂れ流しは水質汚染、ひいては伝染病の蔓延に直結した。人工的な下水道がなかった古代の都市では、どのように河川を利用して排泄物をスムーズに処理するかが課題となった。
平安京以前の都が長く続かなかった理由には、この排水問題が大きく関わっていたようだ。

日本初の本格的な都である藤原京は、川が南東から北西へ流れていた。古代の都は、中国にならって北に宮をつくって南に向かって街がつくられるという構造をしていた。そのため、水質汚濁が宮にむかって進んでしまい使い勝手が悪い都だったと予想される。
それに対し、平城京は川が北か南に向かって流れる平城京は、排水の点では理にかなっていた。しかし、一説には、人口が増加するにつれ、燃料や材木として周辺の山の木々がほとんど伐採されていまったことで、土砂の流入や河川の氾濫などで都市の排水機能が麻痺してしまったのではないかと考えられている。

その後、都は長岡京へ遷都された。長岡京は桂川・宇治川・木津川という3つの比較的大きな河川が集中しており、普段の排水の面では困らなかった。しかし、巨椋池(おぐらいけ、現在は埋め立てられている)という大きな池があり、ひとたび水害が起こると水がなかなか引かないというこれまた排水面での課題が明白な地であった。
長岡京は10年で見切りをつけられて平安京へ遷都する。平安京は東に鴨川、西に御室川(おむろがわ)が流れており、都内には天神川や人工的に整備された堀川が南北に流れている。川の流路としては理想的な都である。さらに京都は比較的標高が高いため川の氾濫のリスクが低い。排水の面でもまさに千年王城と呼ばれるだけの立地だったのだ。

【参考】


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