#276 くじ引きで将軍になった男
室町幕府第6代将軍足利義教(よしのり)は、歴代の征夷大将軍の中で、唯一くじ引きによって将軍になった男である。
足利義教は、3代将軍足利義満の側室の子として生まれた。兄である足利義持が4代将軍となったため、若くして将軍候補から外れた義教は仏門に入る。
義持は、1423年に唯一の跡継ぎだった子の義重(よしかず)に将軍の座を譲ると、自らは出家した。しかし、義重は2年後にわずか19歳で死去。その後、将軍は空位(実権は義持が握っていた)のまま、1428に義持が死去。
この時、後継者が決められていなかったため、残された守護大名たちは、義持の4人の弟の中から、くじ引きで将軍を決めることにした。(出来レースだったという説もある)
由緒正しき石清水八幡宮においてくじ引きを行い、足利義教が将軍として選ばれた。
すでに仏門に入っていた義教は、最初は将軍就任を固辞したものの、幕臣の説得によって還俗し、将軍になった。
義教は、将軍の権威を高めて幕政を安定させることをめざした。
リーダーシップを発揮して(悪く言えば独裁的な政治を行い)政治を行っていく。
勘合貿易の再開、軍事力の強化、義教に呪いをかけたとされる比叡山延暦寺の制圧、延暦寺と手を結んでいた鎌倉公方足利持氏を討伐するなど、強権的な政治を行った。
家臣の間では、義教に対する恐れや不満が高まっていった。
そんな中、守護大名だった赤松満祐(みつすけ)が将軍に殺されるといううわさが流れたことから、赤松家は将軍の暗殺を企てる。
1441年、義教は赤松満祐の子赤松教康(のりやす)の家で猿楽を鑑賞中に赤松家の武士によって暗殺されてしまう。世に言う「嘉吉の変(乱)」である。
将軍の権威を取り戻すために強権的な政治を行った義教だが、皮肉にも自身の暗殺によって室町幕府の権威を失墜させることになってしまった。
【目次】
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