創作『かざぐるま』[第13話]

[第13話]春稀

 空っぽの教室。僕は一番後ろの席に座っている。自分以外誰もいないので、世界には自分1人しかいないかのように錯覚する。ふと視界の端の方から熱い光線が射してきて、太陽が沈んでいく。しばらくそのままでいると、また太陽が昇って空から暗い色が消えていく。そしてまた空が黒くなって、夜がやってくる。そして太陽が昇り、沈む。何度かそれが続いた。僕はただ席に腰掛け、太陽が動くのに合わせて変わる空の模様が腕に映るのを見ていた。次第に何回太陽が沈んだのか、今日は何日で、今は何時頃なのかも分からなくなってきた頭は睡眠という選択をとった。誰のだか知らない机の表面が唾液で溢れてしまったとしてもまったく気にしないぐらいに、僕は眠りに落ちた。
 それから睡眠が浅くなってきた頃、僕以外の誰かの声が聞こえ始めた。教室に、たくさんの声がこだまする。机に突っ伏したまま腕の隙間から見てみると、周囲では普通の高校の教室の、何気ない日常が進んでいる。顔を上げて前の席を見ると、高校生のときの春稀(じぶん)が座っていた。春稀はずっと前を向いていたので、表情は見えなかった。春稀の前の席は、颯太だ。春稀は颯太と雑談をしている。そうだ、これは高1の最初の席順だ。そこで初めて気がついた。僕はなんでこんなところにいるんだろう。気味が悪くなって立ち上がり教室を出て行くが、廊下を歩いていても、僕の存在に気がつく人は誰もいない。目も合わない。向こうから来る人をよけようとすると、その人の身体に僕の身体が吸い込まれ、透明人間のようにすーっと抜けて離れていく。そうして僕は、自分の実体がなくなりつつあることを知った。
 生徒玄関を抜けて、校門から歩道に出て行く。あえて通学ルートではなかったところを歩いて、知らない土地を目指す。学校のある時間帯なので、高校生も中学生も小学生も道にはいない。その代わりに、大きくて太った犬の散歩をしている人がいる。自転車に乗ってブツブツつぶやく老人がいる。車が時折、勢いよく横を通り過ぎる。僕は脚の筋肉が痺れるまで、ただひたすら歩いて行った。しかしどこに向かっているのかも、自分が今どこにいるのかも把握できなくなってくるにつれ、不安が高まってくる。でも、あの狭い教室に1人で何日も何日もいた頃から僕の頭はもはや正常ではなかった。自分がこの瞬間、まさに不安を感じているかどうかも怪しい。自分のすべての感覚はところどころネジが抜けているかのように狂っていて、目に入る情報も全部間違って自分の中に入り込んでくるみたいだ。おかしい。おかしい。僕はとうとうおかしくなってしまったのだ。

 それから何日か、彷徨っていたと思う。自分は透明だから誰の目にも見えないし、誰にも助けを求められない。でも休みたいときに休んだり眠ったりすることはできたし、何も食べなくとも空腹にはならなかった。しかしどこまで歩いても、目的地もゴールもなく、道は延々と続くばかりだ。僕は自分がなぜこんな状況にいるのか、理解することができなかった。しまいには途方に暮れて、誰もいない小屋の中で座り込んでいた。

 そのとき、バチッという音がして雷のような光が走り、視界が真っ白になった。おい、という低い声がする。
 ユキの姿が現れた。
「……‼ …ユキ‼ ど、どうなってるんだよこれ⁉ 僕もう嫌だよ、こんなの! 早く、帰りたいよ…!」
 僕はやっとの思いで叫んだ。言葉を話すのはいつぶりだろう。
「はー。せっかく来てやったのになんだその言い草は。帰りたいってどこにだよ?」
「どこって、…家だよ!」
「家…? またアイツと暮らすのか? あの最低クソ野郎と暮らすのか?」
「…そんな言い方、ひどいよ‼」
「…なぁ春稀。お前どれだけひどいことされてたか、分かってんのか? もうアイツと住む必要もないし、つらい思いしながら生きる必要もないんだよ。アイツには俺が罰を与えてやったからもう大丈夫だ」
 罰を与える…? 僕はものすごく胸が苦しくなるのを感じた。記憶の渦の中から思い出したくない断片が引っ張られて出てくる。
「…‼ そうだユキ、そうちゃんにひどいことしたでしょ‼ お前だって最低だよ‼ なんであんな…、あんなことしたんだよ‼ ひどい、ひどいよ…! ひどすぎる…」
「お前がされてきたこと考えれば、あのくらいの罰を受けて当然だろ? あんだけしなければアイツだって懲りないよ」
「…罰とか、そういうことじゃないよ! そうちゃんが、かわいそうだよ…」
「はぁ? お前、本気で言ってる? どっちがかわいそうなんだって。これだからお人好しはダメなんだよ」
「僕のことを、否定するなよ!」
「否定なんかしてない。お前は優しすぎるんだ。昔からそうだった。だから俺が必要なんだ。でももうその必要もない。お前はもうすぐ、死ぬんだよ。」
「…は? 死ぬって、どういうことだよ?」
「薬大量に飲んどいて何を言ってるんだ? 死のうとしたんだろ?」
「えっ…、あれは…。今思うと…、本当に死にたいわけじゃ、なかったよ。」
「今さら言っても遅い。気づかなかったのか? ずっと夢見てるみたいな感覚あるだろ? お前はもう目覚めないんだよ」
 ユキが言っていることが信じられなかった。何だこの気持ちは。驚きと虚しさと怒りと焦りと後悔…いろんな感情がぐちゃぐちゃになって巨大な渦を巻く。と同時に、断崖絶壁の頂上にすっぱりと自分だけ取り残されたような感覚。
「嘘だ‼ でたらめ言うなよ! こんなところで僕は死ぬのか? じゃあ僕の人生は何だったんだよ? 苦しんでいろいろ考えて悩んで、最後はこんな意味不明なとこでユキと喧嘩して終わり? ふざけんなよ。僕は嫌だよ! 早くここから出してよ!」
「うるさい。とにかくお前はもう苦しい思いなんかしなくても済むんだ。だから落ち着けよ!」
「そうやっていつも上から目線なのやめてよ! もうお前なんか…消えろよ‼」
「はー。ひどいことを言うもんだな。今のお前がいるのは俺のおかげだぜ? それを分かってんのか? …ま、俺ももうお前の代役は疲れたし、人殴って犯すなんて汚れ仕事懲り懲りだよ。だからこれからは大人しくしてやるよ」
 それだけ言い捨てると、ユキは消えてしまった。永遠の別れのような気がした。目の前からいなくなってから、僕はユキが消えたことを悔やんだ。ユキは出てくると厄介だから、僕は最近のユキが嫌いだった。気がついたら知らない場所に来ていたり、颯太にひどいことをしたりした。そのたびに僕は不安になったし、颯太に謝った。僕の本心はそんなんじゃないよ、といつも伝えていた。だけど、ユキは「もう1人の僕」であることは間違いないし、僕のことを守ってくれる、とても強い存在だ。確かに、ユキがいなければ今の僕はいない。僕がこれまでユキにどれほど救われてきたか、数え切れない。でもこれからは僕1人でなんとかしていかなければならない。…ユキが言っていたように、僕は本当に死ぬのかな? 確かめようがないから何とも言えないけれど、この先、どうすればいいのかな。僕はずっと透明人間のまま、この見知らぬ土地を彷徨うのかな。それってなんだか成仏していない霊みたいだ。抑えていた涙がぽたぽたと地面に零れ落ちていった。

 僕は歩くことをやめ、その小屋の中で過ごすことにした。誰にも邪魔されず、1人でただ時間がゆっくりと流れていくのを感じた。孤独の寂しさや、もうすぐ死ぬという哀しみはあったが、その中で不思議と穏やかな気持ちも芽生えてきた。そして、とどまる場所を得た分、考える時間が増えた。僕は自分自身や自分の人生、ユキについて、思い出せる範囲で振り返った。そして、颯太と僕とのことについて考えた。

 そもそも彼と出会ったときから、僕は彼に何か運命的なものを感じていた。言葉にするのは難しいけれど…、彼の眼を見たとき、「自分と根源的に共通する何か」を感じ取ったのだ。席が近いのもあってだんだん話をするようになると、音楽や本の趣味が似ていることが分かり、心の距離も近づいていった。自分とここまで似ている人と出会ったことがなかったのでとても心躍ったし、そんな人と同じクラスで毎日話せることが、僕にとっては幸せだった。
 いつしか僕は彼に魅力を感じるようになって、ユキにも注意を受けた。僕がこれまで好きになった人は女性だったし、男性を好きになったのは初めてだった。でも僕にとっては、相手の性別がどうであれ、「好きになった人が好き」なのだとそのとき思った。それにバイセクシュアルの知人もいたから、おかしいことだとは思わなかった。
 颯太と深く関わるうち、僕は彼自身についても知っていった。教室では目立たず無口でクールな彼だが、意外にも感情豊かで、涙もろいところがあった。まっすぐで優しい心がある一方、プライドがかなり高くて、男らしく振る舞うことにこだわっているようにも思えた。彼がゲイだと打ち明けてくれたのは、僕が元カノと別れて数日経った頃だった。僕は「そういえばそうちゃんは彼女いないの?」なんて、失礼なことを聞いてしまった。だけど彼は誠実に答えてくれた。「彼女はいない。…そもそも俺、ゲイなんだ」って。そのとき僕はうっかり、彼に対する自分の気持ちを口にしてしまったのだ。「僕、そうちゃんのこと好きだよ」ってね。彼は驚いていたけれど、満更でもないみたいな顔してたよ。僕はそれだけで十分だった。
 志望大学も学科も同じだと知ったときは、さすがに運命だと思った。僕たちは心理学科を目指して猛勉強した。まさに切磋琢磨の受験生時代だった。それで2人とも合格したのはもちろん嬉しかったが、まさか卒業式の後に颯太から告白されるとは思ってもいなかった。彼には好意を伝えていたけど、実際に交際できるなんて思っていなかったし。でも、彼の眼は本気だった。僕は喜んで、「よろしくね」と言ったのを覚えている。

 大学時代は2人とも実家を離れたから、自由だった。大学生ノリは好きじゃなかったが、僕たちもおよそ大学生らしいことをしていたのだと思う。1年生の頃は休みの日に東京にデートに行き、ラブホテルにも何度か行った。彼はそういう場所に慣れていて不思議に感じたが、高校生のときから行っていれば無理もない。あとは2年生まで学生寮にいて、他の学生に迷惑をかけたくないから寮の部屋ではセックスをしないと決めていたのだけれど、次第にラブホテルに行くのが面倒になってくると、連休やお盆とか年末年始とか学生が帰省して寮からいなくなった頃を見計らって、部屋で堂々としていた。あの頃は颯太も僕も、欲望のままに好き勝手生きていたように思う。僕たちは若かったのだ。
 3年生になって一緒に住み始めてからは、彼と一日中過ごすことが当たり前になっていた。同じ布団で目覚めて、大学に行って同じ講義を受けて、放課後は買い物に行って、帰ってきて夕食を作って食べて、レポート課題に取り組んで、終わったら映画を観て、でもいつの間にか途中で眠っていたことに気づいて、深夜に2人で眠い目をこすりながら風呂に入って、また同じ布団に潜る。ドラマチックなことは起きないけれど、僕たちの平穏な日常がそこにはあったのだ。僕が彼の秘密を知るまでは。
 でも今言えることは、彼の過ちは許されないことだし、僕も心がどうにかなっちゃうぐらい悲しかった。でも、彼の非はその事実1つだけなのだ。それ以外に彼に悪いところは見つからないし、それ以上に僕は彼の良いところをたくさん知っている。それに、彼の優しさに依存していたのは僕の方だ。体調が悪いときは病院に付き添ってくれるし、食べたいものも買ってくれる。いつでも僕のことを気遣ってくれるし、疲れたときはあたたかく抱きしめてくれる。彼からもらったものは、返しきれないほど多くある。だからここで彼との関係を終わりにしてしまうのは、僕としては諦められない。いつまでも苦い味が身体全体に残ったままで、すっきりしない。やはり彼から事実を話してもらって、僕の気持ちも彼に伝えたいし、何もかも隠したまま、全部をなかったことにしたくはない。僕はもう一度、彼とやり直したい。

 過去を振り返りながら自分の気持ちを整理していると、徐々に頭が冴えてきた。僕は1人小屋の中に座って、ただ、「生きたい」という思いが強くなってきた。