創作『かざぐるま』[第11話]

[第11話]颯太

作者注)本話は性暴力表現およびショッキングな表現を含みます。
フラッシュバックの不安がある方は読むことをお控えください。よろしくお願いします。

 X年12月。気がつけば、巷ではどこへ行ってもクリスマスムードだ。だが、俺にとってはまったく関係がない。とてもじゃないがそんな楽しい気分にはなれない。
 …この冬は、俺が生きてきた中で最もつらい冬になった。ただでさえ空気が冷たいのに、俺は心に突然大きな穴が開いて、アパートの部屋で1人茫然自失状態で、寒さが余計に身にこたえる。さらに時々頭がずきずきと痛むし、不安と吐き気の合わさった得体の知れない気持ち悪さが何度も襲ってくる。もう生きているのだか死んでいるのだか分からないまま、時間だけが過ぎている。

 結論から言うと、春稀は今、病院にいる。正確には入院。4日前からだ。
 アイさんと最後のライブに行った日だった。その日も春稀は学校を休んでいた。春稀は深夜の徘徊がひどくなってから睡眠不足になり、昼夜逆転の生活になっていたので学校も行けない日が増えていた。気分もすぐれず、口数も減り、気づくとベッドに横になって休んでいた。俺は家にいるときは春稀の様子を何度か確認していたが、それ以外はほぼレポート課題に取り組んでいた。その日、俺は学校から帰って来て、春稀がベッドで寝ているのを確認してから家を出た。彼に「出かけてくる」と言っても、はっきりした反応はなかった。食べ物は冷蔵庫にまだあったし、夕食は適当に食べてくれると思った。
 ライブが終わると、アイさんに「元気でね」と言われ、文字通り決別することができた。彼は「近いうち、海外に行こうかと思ってる」と話した。俺は驚いたが、「気をつけてください」とだけ伝えた。と同時に、もう彼と会うことはないだろう、と強く思った。長い付き合いだったけれど、別れるのは一瞬だった。

 それからまた電車に乗って、帰宅してドアを開けると、珍しくユキが玄関に立っていた。そこからは記憶が曖昧なのだが…、…あまり思い出したくないのだけど…、ユキは言葉にならない奇声を上げて、俺をぼこぼこに殴って、床に蹴り倒した。それがとても痛くて、過去一番の痛さだった。俺は命の危険を感じた。けれど、いつの間にか彼が上に覆いかぶさっていて、逃げることができなかった。ショックで、身体に力が入らなかった。その後は意識がところどころ飛んでいて覚えていないのだが…、気づいたら俺はユキに犯されていた。信じられなかった。あいつだって男だけど…、いや、男とか女とかは関係なくて、…あいつが、暴力が性衝動につながるようなタイプだったなんて知らなくて。怖かった。いや、本当は違うのだろう。そういうのも関係なくて、ただ、俺に対する長年の怒りとか憎しみとか…いろんな感情をぶつけるために、ユキはそういう行動をとったのかもしれない。…あぁ、ダメだ。あまり思い出すと吐きそうだ。もうこの話は終わりにする。
 その行為が終わると俺はやっとの思いで風呂場まで辿り着いて、シャワーで全身を洗い流した。風呂場から出るのも恐ろしかったが、耳を澄ましても何も聞こえなかったので、俺は服を着て、部屋へ戻ろうとした。辺りは不気味なほど静かだった。それもそのはず。
 …廊下に、春稀がぐったりして倒れていた。

 俺は血の気が引いた。俺と春稀の間に、一瞬、見えない境界が引かれた気がした。これは「ヤバい」状態なのだと悟った。あとは何がどうなったのか分からないけど、暗い夜の静寂の中、救急車の音だけがいつまでも耳にこびりついていた。

 病院に着いてから、俺は春稀の家族に知らせようとして、彼のスマホを起動した。ところが電話帳には春稀の実家の番号も、親の番号も見つからなかった。登録されていたのは「アスミ」、「姉さん」、元カノ、通院している病院、昔のバイト先、そして俺。「アスミ」なんて知り合いは、俺は知らない。とりあえず俺は、「姉さん」に電話をかけた。春稀に姉さんがいるのも知らなかった。そういえば俺は春稀の家族についてほとんど知らない。姉さんはなかなか出なかった。夜遅くだから仕方ない。しかし緊急事態だ。諦めずに何度かかけてみると、…つながった。
「はい」
「あの…夜分遅くにすみません。春稀さんのお姉さんの携帯でしょうか」
「…あぁはい。そうです」
 事情を伝えると、春稀の姉さんはすぐに来てくれた。黒髪で眼鏡をかけていて、目元が春稀に似ていた。
「あなたが春稀の友達? 知らせてくれてありがとね!」
「あっ…、あ、あの…本当に、ごめんなさい…。」
「なんで謝るの? あなたは何も悪くないよ。もう遅いから帰っても大丈夫だよ」
 俺のせいで春稀がこんなことになったのに、何も知らない姉さんに「あなたは何も悪くない」と言われて、俺は何も言えなくなる。でも、
「いえ、俺もまだ残ります。」
 とだけは、言葉が出た。

 春稀は意識不明のまま、入院することが決まった。夜が明けるまで俺たちは病院にいた。その帰りに、ファミレスに行った。姉さんがお礼としてご飯をおごらせてほしいというのだ。
「ほんとに、お疲れ様。何でも好きなの選んで」
 姉さんの目には疲れが感じられたが、俺ほど動揺はしていないように見えた。
「昨夜のことは、母には伝えないでおきたいと思うの」
「そう、ですか…」
「…母は重度のうつ病で、今は祖母の家にいるんだけど、そんなに安定はしてないから。春稀が自殺未遂したなんて聞いたら、何しでかすか分からないし」
「そ、うなんですね…」
「母もね、昔何度か飛び降りとかしてたから。慣れてるんだけど」
「…」
 それは慣れてしまっていいものなのだろうか。俺はただ黙って姉さんの話を聞くことしかできなかった。黒いもやがかかっていた春稀の家庭事情が少しずつ見えてきて、開けてはいけない箱を開けているような気分にもなった。
「でも今回はあなたが発見してくれたから、助かったんだと思う。ありがとう」

 結局、俺は本当のことを言えていない。いや、初対面の姉さんに、言うことなんてできなかった。俺と春稀の関係。俺がしてきたこと。これまでの春稀の行動。最近の俺たちの様子…。姉さんといるとき、ずっと、喉の下辺りに、重い鉛のようなものが入っているみたいで苦しかった。吐き出したかったけれど、決してできなかった。
 ふと、スマホが鳴る。俺は我に返り、画面を見る。…春稀の元カノだった。悪い予感がした。応答する。
「…あ! もしもし?」
「はい」
「颯太!! ねぇ春稀は? メッセージ送っても全然既読つかないし、電話も出ないし…。もう1か月もだよ! なんかあったの?」
「あぁ…」
「え、何?」
「春稀は、入院してる」
「え?! …なんで!!」
「うん、だから…、薬とカフェイン大量に飲んで、倒れて」
「そうじゃないよ! …え? くすりって何の薬よ」
「病院でもらったやつ」
「それいっぱい飲んで入院したっていうの?」
「うん」
「……大丈夫、なの?」
 元カノの声が震えている。
「…意識は、まだ戻ってない。」
「何それ…。……全部、あんたのせいでしょ? 今だから言うけど…、私あんたのこと春稀から聞いてるんだよ。…あんたのせいで、春稀がこれまでどんだけ苦しんできたか、分かってんの?!」
「…うん。取り返しのつかないことしたって思ってる。」
「ほんとだよ…。もし…、もし何かあったらどうすんだよ…。」
「もうそうなったら…、いや、そうならないことを祈るけど…、一生償うつもりでいるよ。償いきれないかもしれないけど…、ちゃんと…、責任は、取るよ。」
「………」
 電話の向こうからはもう元カノの声は聞こえない。声を押し殺して鼻をすする音だけが耳に入ってくる。相手が電話を切るまで、俺は何も言えなかった。
 俺は春稀の元カノと電話をして改めて、現実を現実として認識せざるを得ないことを悟った。もう、春稀はこの家にはいない。これまでの春稀との日常はもう戻って来ない。俺は1人だ。…1人で、これからどうやって生きていけばいいのだろう。「償う」なんて、簡単に言っていい言葉ではない。さっきの電話でも、俺の言葉はむなしいくらいに、意味もないただの音(おと)にしか聞こえなかった。俺は、どんどん膨らんで大きくなっていく不安に自分が押しつぶされるイメージが延々と頭の中に現れるのを、黙ってやり過ごすことしかできなかった。