創作『かざぐるま』[第17話]

[第17話]春稀

作者注)本話は性的な表現を含みますので、ご注意お願いします。

春稀:23歳 男性
 
 X+1年6月。学校が始まって2か月が経った。僕は朝から晩まで1年生たちと一緒に2度目の授業を受けている。みんなからは結構話しかけてもらえていて、「先輩」として慕われつつあるのかなと感じている。まあ、僕は決して頼りになる先輩ではないけどね。一方、2年生になった同期も院生室で会えば話しかけてくれる。担当ケース(1年生の終わり頃から各学生が相談者を受け持つことになっている)や修論の準備が大変だとか、夏休み期間の学外実習(これも大変との噂だ)に行きたくないとか、いろんな愚痴を聞く。僕は自分から話すのは得意ではないけれど、人の話を聞くのは苦じゃない。僕は同期たちの吐き出したものを受け止めて、相手を傷つけない具合に言葉を返す。そのとき説教やアドバイスはしない。というよりむしろできない。そういうのは自分に向いていないと昔から気づいている。
 颯太とも、前に比べたら上手くやっていると思う。自分の気持ちを面と向かって伝えることは簡単ではないけれど、ちょっとずつ実践できるようになっている。2人で我慢していたときと違って、意思表示をし合うことで意見がぶつかることも少なくない。でもそれを一緒に考えて、どうしたら良い方向に行けるか、すり合わせをしていくことは共同生活を送る上で必要だし、これが意外とやりがいのある作業なのだ。どちらかが何も言えずに苦しい思いをするより、本当のことを話し合う方が、気持ち的にもすっきりする。

 そういうわけで僕たちは大きな問題なく、日々を過ごしている。…あえて言うとすれば…、この間、こんなことがあった。
 僕は療養中ということで、心身共に無理をしない生活を心がけている。颯太も僕のことを今まで以上に気遣ってくれている。それはとてもありがたいと感じている。だけど、これまでみたいなスキンシップが減って、微妙な距離感を感じていた。なんだろう…、以前は、精神的なつながりは薄いけど肉体的なつながりは頻繁にあったのだ。どちらかが誘ったのかも分からないうちに、僕たちは時間の隙間を見つけては身体を重ねた。そしてしらふに戻ってくると、無意味で空虚な気持ちになって部屋の中も頭の中にも煙のにおいがいつまでもこびりついて、ベッドの上も下もいろんなものでぐちゃぐちゃになっていて、いつの間にかユキが出てきて僕の意識はどこかへ行ってしまう。そうなるのを分かっていて、僕たちは泥沼に溺れるみたいにセックスをした。もうあんなふうにはなりたくない。だから、もっと気持ちの通じ合ったセックスをしたいと僕は思っている。しかし颯太の方はどうだ。心優しいのは変わらないが、そこに細やかさと丁寧さが増して、僕に対してはVIPでももてなしているかのような態度だ。もちろん僕のことを触ってくれる。でも、そこには遠慮とも、躊躇とも感じられる固い境界線があった。事実、退院してから颯太に誘われたことがない。僕は回復してくるにつれ、颯太を求めるようになった。彼はある程度まで応じる。ゆっくりと身体全体で温めるように抱きしめて、キスもしてくれる。僕の髪の毛を指に絡ませながら、撫でてくれる。だけどいつも一線は越えずに、2人ベッドに横になって夜を明かした。服も脱がなくなった。
 どうしたものか、と不思議で仕方なかった。けれどこの件についてはなかなか言い出せずに、数か月が過ぎてしまった。颯太も何も言わないので、僕も話題にしにくい。これでは前に進まない。前の僕たちに逆戻りだ。それでこの前、ようやく彼に本心を聞いてみることにしたのだった。
 僕は颯太を求めている。最後までできなくなってしまった理由が知りたい。それと、いつも僕ばかり優しくしてもらっているから、今度は僕が颯太を抱きたい。と、ざっくり言うとこんな内容の話をした。改めて言葉にすると、ちょっと恥ずかしかった。しかし颯太の眼を見ると、明らかに困惑しているようで、言ってはいけないことを言ってしまったような気がした。その話は持ち出さないでほしい、その場から逃げ出したい、と2つの眼が訴えていた。僕は焦って話を続けた。
「そうちゃんはプライドが高いから、僕の前ではかっこつけていたいし、優しくしたいし、何事においてもリードする側でいたいんじゃないの? でも本当は甘えたいと思ってる。だけど、そのプライドが許さないから、僕以外の人に抱かれていたんじゃないの? 僕だって優しくされる側ばっかりじゃ不満だから、そうちゃんに気持ち良くなってほしいとも思う。アイさんはもういないんだし、僕がそうちゃんを抱いてもいいよね? って今アイさんのことは関係なくて、これは僕とそうちゃんの話だよ。ねえ、僕が誘っても、なんで断るの? ちゃんと言葉で言ってくれないと、分からないよ。何かあるんだったら、言ってよ! せっかく良い関係になってきたと思ってたのに、どうして肝心なこと黙ってるの?」
 勝手に口が動いて止まらない。頭と心と口と眼がばらばらになって、そのまま砕けてしまいそうだった。気づくと涙が出ていて頬をつたった。すると颯太の両手が、僕の両肩に触れた。
「春稀。ごめん。」
 と、彼の声が聞こえた。一言ずつ、真剣な気持ちで言っているのが伝わった。
「多分きっと、気分を悪くさせるかもしれないけれど…、全部話すから、聞いてくれる?」
 僕はうなずいた。彼が涙を拭いてくれた。
 そして彼の話を聞いた。僕がオーバードーズをして倒れた夜のことだ。彼が語ることが真実だと、最初は信じられなかった。そんなの嘘だと言いたかった。しかし、違った。そのときの記憶が青写真みたいにちょっとずつ浮き上がってきた。僕は確かにその光景を“見ていた”のだ。ユキが颯太をレイプして殺しかけた光景を。忘れていた。すっぽり、抜け落ちていた。どこかへまるごと、遠くて見えない深いところに隠していた悪い記憶が、マグマのように湧き上がってくるようだった。
「それからずっと俺の下半身は死んでる。だから春稀とセックスできないんだ。もっと早く言っておけば…、いや、言わない方がいいと思ってた。だってこんなこと言えるわけないよ。俺だって、あのときのこと…、忘れようとしても忘れられないんだ。」
「……僕は、なんて残酷なことを言ったんだろう…。」
 僕たちはお互いを抱きしめ、声を上げて泣きながら、相手の顔も見ることができずに、ただただ溢れ出てくる言葉を話し、聞いた。本当に、どうしようもない僕たちだなと思った。だがそうすることしかできなかった。泣き疲れて何も言えなくなった頃、彼は言った。
「春稀のせいじゃないよ。」
「…え?」
「あれはユキがやったことであって、春稀は何も悪くないよ。」
「……」
「それに、ユキはもういないんでしょ? だから俺は誰も責めない。」
「…完全に“いない”わけじゃないと思う。さっきも僕、おかしくなってたでしょ? 自分が自分じゃなくなる感覚…、久しぶりだったけど、ユキはまだ僕の中のどこかにいる。」
「でも『今、この瞬間』にはいない。俺が今、見ている、話しているのは春稀だ。ここにいるのは、俺と春稀。で、あのときの話は俺とユキのことだ。」
「そういうこと、にしてもいいの…?」
「それで、いいんだよ。」
「ごめんね…。」
 すぐ謝るとこ、直してほしいな。と彼が言った。彼の言う通りすっかり癖になっていた罪悪感と、それを受け止めて融かしてくれる彼のあたたかさが全部愛おしくて、僕は「ふふふ」と笑ってしまった。颯太も少しだけ、笑っていた。