創作『かざぐるま』[第3話]

[第3話]C

C:22歳 女性 大学院1年生
 心理学科卒 男性恐怖症傾向
 
 X年8月上旬の土曜日、お昼の12時を過ぎた頃。エアコンのきいた院生室の自分の席で、私はぼんやりと視点の定まらないまま、マグカップに入った冷たい麦茶を飲んでいた。目の前にあるノートパソコンは、書きかけのレポート課題のWordファイルを無機質に映し出している。隣には、講義日の順番も関係なく乱雑に重なった数十枚の講義資料。シャープペンシルやボールペンが中途半端に頭を出しっぱなしの、生協で買った安いペンケース。通知もろくに来ないのに、なんとなく気になってしまうから机に出しているスマートフォン。それぞれ、それがただ置かれている、ただそこにある、という感じで、私がここにいる、という事実とはあまり関係がないんじゃないか、なんていう錯覚に陥る。…自分でも何を言っているのだか、分からないけれど。
 

 私は、たまに「私」という主体が分からなくなる。
 私は高校生のときに通学中の電車で何度か痴漢に遭ったことがある。大学時代には、同級生の男性から何度も嫌なことをされた。卒業までにそれは止んだが、念のため大学院は出身大学から遠く離れているところを選んだ。こっちに来てからはそういう直接の被害はない。でも、男性に触れられることは今でも気持ち悪いと思うし、とても不快だ。
 そういうこともあって恋愛の方は、興味も経験もまったくない。元々私自身、恋愛に対して積極的な方ではなくて、誰かに憧れを持つことはあっても、その先どうなりたいかまでは思い描くことがなかった。今までいろんな友人たちの恋バナを耳にしてきたけれど、みんなすごいなあ、くらいにしか思わず、自分もそうなりたいとは思わなかった。最初は多少なりとも羨ましさはあったと思うが、年を重ねるにつれ、周りの人間は自分とは違うタイプの人間だ、と嫌悪感や拒絶感が出てきた。
 私の周囲には自然発生的に多くのカップルがいて、いつも大学構内外を闊歩していた。その多くがいわゆる“普通”の男女カップルであり、私は3年生の頃には男女カップル嫌悪が酷かったように思う。例えばある日の通学途中、数メートル先にカップルらしき男女が恋人つなぎをして登校しているのが視界の中央に入ってきた。その2人は歩くスピードがとても遅く、周囲のことなどまるで目に入っていないようで、文字通り2人だけの世界に入っていた。私は追い抜かそうと思ったが、結局学校に着くまで抜かせなくてイライラした。そして他にも、同級生の恋愛事情についての真偽不明な噂話や、サークル内での薄っぺらい恋愛関係のごたごた、近所の居酒屋の駐車場から聞こえてくる男女の話声、アパートの隣の部屋から響いてくる深夜の性行為の音……そうした多くの「生々しさ」に、私は少なからずアレルギー反応を起こしていた。

 そんな私の疲れ切った心を癒してくれたのが、BLであった。最初は好きな青年漫画の二次創作をネットで見つけて楽しんでいたのだが、やがて商業BLの世界にも足を踏み入れた。その沼は底なし沼であり、私は未だにそこを潜り続けている。安らかな深海を目指す、ダイバーのように。私がその海のような大きな沼から上がることは、おそらくない。
 BLのどこに惹かれるのかを、一言で表すのはとても難しい。強いて言うならば、彼らを「美しい」と思えるからだ。彼らは1人の男性と、1人の男性である。そこに女性(…=「私」)はいない。男女間に感じてしまうグロテスクな「生々しさ」が、そこにはない。私は恋愛の舞台から降りて、彼らを見守る。彼らにとって、私という存在は現実にはいない。「壁になりたい」という人もいるけれど、私の場合は違う次元から眺めているだけでいい。これまでたくさんの作品を読んできたけれど、どんなに酷く醜く、悲惨な物語であっても、私はそこに、吐きそうなほどの不快感や嫌悪感は抱かなかったし、むしろ神聖で触れてはいけない、清らかな何かを感じ取ったのだ。

 大学院に入り、同期の春稀くんと颯太くんがカップルであることを知った。私は入学式のときからなんとなく気づいていたが、後でAちゃんやBちゃんに密かに教えてもらった。本人たちは自分たちの関係を隠していないので、先輩たちも(先生もたぶん)知っていて、それが当たり前のこととして通っている。私はそんな環境に入学できて嬉しい。一人間としても過ごしやすいし、一腐女子としてももちろん。彼らは目の保養になり、下がりに下がった私のQOLを急上昇させている。

 ふと、電気ポットのお湯が沸いたことを知らせる、滑稽なほど明るい電子音が鳴った。昼食に食べようとコンビニで買っておいたカップ蕎麦をバッグから取り出し、席を立つ。ああ、またいろいろと過去のことを思い出してしまった。パン、と頬を叩いて、私は電気ポットの方へと向かった。誰か来ないかな、なんて淡い期待を抱えながら。