創作『かざぐるま』[第2話]

[第2話]B

B:22歳 女性 大学院1年生
 心理学科卒 創作作家
 
 X年6月、午後3時過ぎ。私は、急いでいた。授業を終えて院生室に戻るやいなや、荷物をバッグに押し込め、同期の学生たちに適当に挨拶をして講義棟から抜け出した私は、今は駅行きのバスに乗るため小走りをしているところである。あの先生、いつも話が長くて延びるから嫌だ。今日は3分45秒も延びやがった。こちとらその後の予定があるというのに。ちらりとデジタルの腕時計を見るとギリギリ、バスの時間に間に合いそうであった。丁度そのときバスがやって来て、私はようやく安堵した。
 駅までは30分程度かかるので、少しばかり暇になる。スマホを見ていればあっという間だが、今はそんな気分でもないので、私は座席にもたれて眠ることにした。それに、ごちゃごちゃした街の景色を見ていても頭が疲れるだけだし、正直見慣れ過ぎてあまり面白みも感じないから。

 そうしてバスに揺られながら駅に着いた私は、駅前のアニメショップへと歩を進めた。今日は、推し作家の新刊の発売日である。新刊は発売日に買いに行く、というのが昔から自分の中にあるポリシーなのだ。そして運良く今日は授業が早く終わる日であったので、授業が終わったらすぐに買いに行こうと計画していた。時間帯もこのぐらいがいい。あまり夕方の時間帯になると、中高生の出入りが激しくなり、店の至る所が中高生で溢れかえる。そうすると、実習先で会う中高生に遭遇してしまう可能性が高くなる。実際、夕方に何度か行ったことがあるが、かなりの割合で顔見知りの中高生を見かけたのだ。原則、実習先で会う人とはプライベートの場では会わないことになっているから、今ではアニメショップに行くのも一苦労なわけだ。
 店に入り、目当ての新刊を探す。しかしいつ見てもBLの新刊はあり過ぎて、探すのも大変だ。でも、その時間も楽しいからまったく苦ではない。しばらく棚の前にいると、1メートルほど隣に気配を感じた。そして、聞き覚えのある声が自分の名前を呼んだ。
「B、ちゃん…?」
 振り向くと、マスクをしたCちゃんが1冊の本を大事そうに抱えて立っていた。
「あっ、ごめんね…、つい。」
「おー、いいよ大丈夫。てかマスクどうした? さっきしてなかったじゃん」
「いや、あっ、こ、これは…。み、身バレ防止…? みたいな?」
 Cちゃんは慌てたようにばたばたと手を動かしながら顔を赤らめている。私は「あはは」と笑ってしまった。
「ああ、恥ずかしいの?」
「うん…、私、お店に来て買うのは初めてだから…。…私がほしいものは、うちの地元の本屋だとまず置いてなかったから、いつもネット注文してたんだ。…でも、こっちの院に来て、憧れのメイトがあるっていうから、いつか絶対行こうって思ってたんだけど、なかなか行けなくて。でも、今日は好きな作家さんの新刊が出る日だから、勇気を出して行ってみようって。そしたらBちゃんが、1本前のバスに乗って行ったのが見えて」
「ああ、そうなんだ。」
 なるほど、そのときから私の姿が目撃されていたわけか。というか、なんだろう、こんなに無垢でちょっとおぼつかない感じの、成人済みの子がいるんだなということに、私は驚くどころか感心してしまった。最近だと中高生でも、こういう場所でも慣れていて堂々としている子の方が多いんじゃないか。
「で、それは何?」
 Cちゃんの持っていた本を指さすと、Cちゃんは本を渡してくれた。
「あっ、これは小説だよ。BLの…」
「へー。小説はあんま読まないから分かんないけど、なんか、良さげだな。」
「えっ、やっぱそう思う? この作家さん、一番好きなんだ…!」
 子どもが自分の好きなものを友だちに初めて告白するように精一杯言い切ると、Cちゃんはあどけない笑顔を見せた。その眩しさは、自分が遠い過去に忘れてきてしまった何かをふと思い出させるようなもので、それと同時に少しだけ私の心を苦しくさせた。理由ははっきりと分からないが。 

 ついつい長居をしてしまいながらも、無事に買い物を終えた私たちは、店を出て並んで道を歩いていた。
「この後どっか行く?」
 何気なく聞いてみると、にこやかに青い袋を提げて歩いていたCちゃんは急に「あれ?」と言って立ち止まった。
「どしたん」
 Cちゃんの視線の先を見てみると、遠く離れたコンビニの前に颯太と春稀らしい人物が見えた。否、「らしい」じゃなくて本人たちだ。
「あ、あいつらじゃん」
「春稀くんたち、今日、休みだったよね…?」
「あ、確かに」
 まったく、学校サボって何してんだか…。そう思っていると、Cちゃんは両手を合わせながら微笑んだ。初日の出でも拝んでいるかのようだ。
「…私、今日まで生きてて良かった。」
「そう、それは良かったね。」
「好きな本も買えたし、オフの日のあの2人も遠くから見られたし。私はもう満足。…Bちゃん、ありがとうね。」
 私はただ隣にいただけで、感謝されるほどのことは何もしていないのだが。でも、Cちゃんが純粋に笑っているのを見て、私も微かに心が潤った気がした。
 
作者注)本作の時代設定はコロナ前、2010年代後半である。