創作『かざぐるま』[第15話]

[第15話]颯太

 X+1年1月。午後。俺は春稀の姉さんをアパートの外で見送り、彼女の車が見えなくなるまでそこに立っていた。部屋着のままで外に出ていると、時折吹く風が身体を一瞬で冷やしていく。暖房のきいた部屋へ帰るのも急ぎ足になる。もう年が明けてしまったのだな、と心のどこかで思う。
 部屋に戻ると、春稀がこたつで遅い昼ご飯を食べている。雑煮の残りに何かをトッピングして、自分なりのアレンジを楽しんでいるようだ。俺の姿が目に入ると、「そうちゃん」と呼ぶ。そして、ありがとう、と微笑む。春稀が何に対して感謝を述べたのかすぐには見当がつかなかった。でもそんなふうに春稀が思ってくれたこと、そしてそれを言葉にして伝えてくれたことに俺は小さな喜びを感じた。
「また持って来てくれたよ」
「うん。お菓子?」
 俺は姉さんから渡された紙袋の中身を注意深く見てみる。
「お餅…」
「ええ、またー?」
 もう食べ飽きた、と春稀は食べている雑煮を指さして言う。俺も春稀も、最近はほぼ毎日餅ばかり食べている。そろそろ餅は卒業してもいい頃だ。でも姉さんがせっかく持って来てくれたのだ。すぐ悪くなるものでもないし、後でありがたく頂くことにしよう。

 春稀は入院して1週間後に意識を取り戻した。姉さんから電話をもらい、すぐに病院へ向かった。春稀は病室のベッドに横になっていた。俺がそのとき見たのは固く閉じられた両目ではなく、飴玉のような黒褐色の2つの眼だった。その眼が再び開き世界を映し、俺の姿を捉えた。俺は徐々に全身の力が抜けていくのを感じ、その場に座り込んでしまった。…春稀が、目を覚ましたのだ! 嬉しい。この上なく嬉しい。…しかし、これは現実なのだろうか? 実感がまるでなかった。何かリアルな夢じゃないかとさえ思った。だって俺は一生かけて償っていくぐらいに思っていたのだ。…でも、春稀は必ず戻ってくると信じていた。だから、それが現実のことになったぐらい、驚くべきことでもないのかもしれない。…いや、しかしこうして春稀が戻ってきたことは、まさに幸運なのだ。俺は感謝しなければならない。頑張って帰ってきた春稀に。そして、春稀を目覚めさせたこの世界に。
「春稀。…おかえり。」
 ベッドの脇の丸椅子に座り、俺は春稀の眼を見た。春稀は俺の眼を見て、微かに目を細めた。姉さんが背後で鼻をすする音がした。静かに涙を流していたようだった。

 退院後、姉さんは頻繁に春稀と俺のアパートを訪れるようになった。毎回、ゼリーやお菓子、飲み物、乾麺やレンチンご飯などを持って来る。姉さんにとって春稀は離れて暮らすたった1人の弟なのだ。日々回復しつつあっても、やはり心配なのだろう。
「シェアハウスっていいね」
 と、2度目の訪問で姉さんがつぶやくように言った。
「一人は気楽だけど、やっぱり誰かがいてくれた方が安心するよね」
「まぁ…、そうですね」
「私今一人暮らしで、当たり前のことだけど、夜帰っても誰もいなくて真っ暗なの。もう慣れちゃったけど、それって結構寂しいことなのかもしれない」
 確かにそうだな、と俺は思い出す。夜遅くに学校から帰って来ても、春稀もユキもいなくて、不気味なくらい、しんとしていたときを。人はいないが、空間だけが取り残されている。暗闇を消すように部屋の電気をつけ、開けっ放しのカーテンを閉める。そのときなぜかものすごく悲しい気持ちになって、窓の外の空に浮かぶ月をただ見ていた。
「私もいつか誰かと一緒に住んでみたいなぁ。ま、そんな人はいないんだけどね」

 その日姉さんが帰ってから、俺は春稀に思い切って聞いてみた。俺たちのことを、姉さんはどのくらい知っているのかと。すると春稀の答えは簡単なものだった。
「え? 普通に付き合ってるって言った。最近」
「最近?」
「あ、退院する直前? かな」
「で、なんて言ってた?」
「えー? そうちゃんのこと、しっかりしてて優しい人だって。羨ましいって」
「そんなこと、ないよ…」
「ん? そんなことなくないって。そうちゃんはほんとにしっかりしてるし、優しいし、僕の大切な人だよ。」
 俺は気がついたら、春稀を抱きしめていた。春稀は小さく笑いながら、俺の背中に手を回し、俺の肩に頭をやさしくもたれて、「嬉しいの?」と聞いてくる。うん、と俺はつぶやく。嬉しいとか満足してるとか幸せだとか、そういう言葉は後付けに過ぎなくて、自分の中に湧き上がるあたたかい感情のようなものが、先にどんどん出てきてしまった。自分でも制御できないくらいに。
「なんか久しぶりだなぁ、この感じ。そう思わない?」
 春稀が言う。
「これからお互いもっと、正直になろうよ。」
「…正直に?」
「うん。…僕さ、入院してたとき、…ずっと小屋の中で考えごとをしてたんだ。それで、思ったんだ。もう一度、そうちゃんとやり直したい。前みたいに我慢するのはやめて、もっと素直に、そうちゃんと向き合っていきたいって。」
「そうだったの…? なんか俺、申し訳ないな…。」
「そうちゃんだって、同じようなこと考えてるんじゃないの? あの手紙に、『これからは、ちゃんと、伝えたいことは隠さないで話したい』って書いてあった。」
「それは本音。」
「じゃあそれでいこう。思ったこと、伝えたいことは、とことん言っていこう?」
 春稀はいつになく生き生きとしていた。春稀って、こんなに輝いていたっけ? 失礼、昔から輝いていた。だけど、なんだろう…、今までとは違う眩しさを感じた。俺は今度こそ春稀のことを突き放したりしない。春稀はこんなにも真剣に俺と向き合おうとしている。俺も同じ気持ちであることは変わらない。

「僕、そうちゃんに、話さなきゃいけないことがある。」
 雑煮を食べ終えた春稀は、俺の眼をまっすぐに見つめて言った。一言ずつ確実に俺の耳に入るよう、とても慎重に。
「うん。」
 と、俺はうなずき、春稀が話し始めるのを待った。話さなきゃいけないこと、という前置きをするくらいだ。何か大事な話をしようとしているのは分かる。しかし変に身構えるのは違う。俺は春稀が話しやすいように、できるだけ穏やかな気持ちを保った。俺たちはこたつに入って、向かい合うように座っていた。天板には春稀の安い箸と空っぽのお椀が場違いみたいに無造作に残されている。妙な間(ま)があって、春稀は口を開いた。
 止まらない水流のような話だったのでまとめると、要点は主に3つだった。1つ目は、俺のことを許しているということ。あの手紙を何度も読んで納得したので、もうこれ以上俺を責めることはできないという。俺とアイさんの関係はこの先起こり得ず、俺も誰かと関係することはないということを、春稀は信頼を持って受け入れてくれた。俺も改めて謝って、自分の気持ちを伝えた。この話はそれほど時間はかからなかった。2つ目は、一度だけ女性と関係を持ってしまったこと。これはなかなか言い出しにくかったようで、本題に入るまでに春稀はお茶を3杯飲み干した。でもこれはユキの問題だ。しかし春稀はとても後悔していた。そのときは本当に絶望してしまって、それが原因で死のうと考えたというから、軽く考えるべき話ではない。そもそもユキがK駅を徘徊するようになったのも、元はといえば俺が悪いのだ。そして3つ目が、ユキが“消えてしまった”ということ。俺も春稀が目を覚ましてから頭の片隅で、ユキが出てこないことが引っかかっていた。春稀によれば、ユキは夢の中に出てきて、偉そうなことを言ってきたので春稀と口論になったという。しまいには捨て台詞を吐いて目の前で消えてしまったらしい。それからユキと出くわすことは一切なくなった。俺はユキがいなくなったことに、さほど驚かなかった。だがいくらか安堵はした。それを春稀に伝えた。春稀はにっこりとして、「僕もだよ」と言った。あの日俺を襲って、力尽きてしまったのだろう。そう頭によぎったが、口には出さなかった。
 長い話を終えると春稀は疲れてしまったらしく、こたつ布団をかぶって眠ってしまった。療養していなければならないのに、彼に多くの体力と精神力を使わせてしまって、俺は罪悪感がひどかった。途中何度か話を止めてみたが、春稀は全然聞かずに、時間をかけてすべてを話した。春稀の頑固なところが裏目に出た。とはいえ誰かとの真剣な対話というのは、非常に多くのエネルギー(生命力とまでは言い過ぎかもしれないが)を持って行かれるものだなと、実感した。こうした営みはこれまで春稀と俺の間にはあまり、というかほとんどなされてこなかったのかもしれない。少なくともこの2年ほどは。
 いつしか俺も身体を横たえて、温かいこたつの中で脚をゆっくりと伸ばした。春稀の脚が、軽く当たる。