創作『かざぐるま』[第7話]

[第7話]ユキ

ユキ:16歳 男性 無職
 春稀の交代人格 
 
 X年10月。深夜。俺はK駅前の広場にいる。もうすぐ日が変わるというのに、この街には眠りという概念がまったくない。駅直結のビルは灯りが消えているところもあるが、広場周辺はまだまだ元気な人の声でがやがやしている。路上ライブをしている人がぽつぽついて、その演奏を聴いている人たちが囲んでいる。こんな夜遅くまで熱心な奴らがいるもんだなと、俺はペデストリアンデッキの手すりにもたれかかりながら、遠目で見ている。ふと煙草が吸いたくなったので、俺は広場を離れて歩道へと歩き出す。
 ポケットに入れておいた箱から1本取り出し、火をつける。俺は春稀と違って電子タバコは吸わない。あの煙のにおいがあまり好きではないから。それにしてもアイツの電子タバコしか吸わないなんて、春稀も趣味が悪いと思う。俺だったらアイツの咥えたとこなんか口つけたくない。ほんとあの子は重症だよなぁ。
 …あーあ。今はあの子のことは関係ない。こうやって1人になっても春稀のことを考えてしまう俺も重症かもしれない。せっかく1人になったんだ。あの子のこともアイツのことも忘れて、喧噪の残る冷たい夜の一部になるんだ。

 それからどこに向かっているわけでもないが、俺の両脚はどんどん前に進んでいった。目的地もなく、ただ道を進む。目の前に歩けるところがあるから歩くという感じだ。視界の隅には、路上で騒ぐ若者たちがいる。ガールズバーの前で客を呼び込む女の子がいる。ラブホテルから出てきたカップルがいる。どこかの路地から現れた酔っ払いがいる。だけど誰も俺の存在に目もくれない。俺にとってもみんな背景に見える。…俺はどこに行くんだろう。俺も分からない。誰も分からない。

 俺が初めて春稀の外に“出て行った”のは、春稀が小5のときだった。もともと価値観の合わない両親は喧嘩ばかりしていて、あの子にとって家庭はまったく落ち着ける場所ではなかった。そのうち父親の不倫が原因で両親は離婚したが、少なからず信頼していた父親が不倫をしていたという事実は、純真なあの子にとっては雷が落ちてきたぐらいの衝撃だったようだ。それからあの子はスイッチを切ったかのように、世界に対して蓋をしてしまった。それまで何の問題もなく行けていた学校も休みがちになり、不登校になった。俺は本当はもっと前から春稀の中にいたけれど、いよいよ出て行かないと危ないと思って、出て行った。“外に出る”のは思ったより簡単なことで、春稀が苦しいときに俺は春稀の代わりに生きることができたのだ。俺は自分で言うのもなんだが優等生を演じるのは得意だったから、問題なく義務教育は終えた。
 その後、春稀は「新しい自分になる」と隣の市の高校に進学した。いわゆる高校デビューというものだ。こういうのは失敗に終わりがちだけど、春稀は運が良く、いじめにも遭わず友人にも恵まれ、学校にいる間は“明るい春稀くん”を3年間維持することができた。ただ、春稀は颯太という同級生と親密な仲になり、どうやら恋愛対象として見ているらしいことが分かった。俺は別に、人が誰を好きになろうと気にしないが、いざ春稀が恋愛をするとなると黙ってはいられない。そもそも俺には、長年春稀を守ってきた自負がある。それに、外の世界に興味も持てなかったあの子が誰かと親密になるなんてことは、これまでなかった。そうさせてしまうほどの何かが颯太にはあったのかもしれないが、簡単に春稀を渡すわけにはいかない。だがそうこうしているうちに、2人は交際を始めていた。俺は何度か説得してみたが春稀の意思は変わらなかった。次第に俺は諦めた。というか、知らない間に春稀は成長していたのだ。それに気づこうともせず執拗に保護者ぶっていた俺の方が変わっていなかったのだと悟った。もう春稀のことに口出すのはやめよう。俺はそう思うようになった。
 それから何の問題もなければ、俺も外での役目を終えて春稀の中に戻っていったかもしれない。しかし現実はそう上手くいくはずもなく、2人の関係はだんだん雲行きが怪しくなってきて、春稀の心に負担がかかることが増えてきた。そのたびに俺は外に出て行かなければならなかった。
 俺から見た感じ、あの2人は後腐れなく、きれいさっぱり関係を断てるような間柄ではない。どこかにひびが入っても、その場しのぎで繋ぎとめて、お互いに何事もなかったかのように振る舞う。そんなことをするなら別れればいいのだけど、2人は依存し合っているから、離れたくても今さら離れられない。一度くっついてしまったら簡単には取れない、2枚の粘着テープなのだ。

 どれくらいの時間が過ぎただろう。ふと辺りを見回すと、文字通り知らない場所へ来ていた。吸っていた煙草ももう手にはなかった。スマホを見ると、アイツから着信が3件あった。うるさかった街の音も今は遠く離れてしまって、嘘みたいに聞こえない。寒気を感じるほど青白い静かな夜道に、俺は1人で立っていた。