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空虚な僕と生きづらい世界

本気になれる人が欲しい
夢中になれるものが欲しい


 僕がこぼしたそれは、自分が自分に向き合うべき理由を他人に求めているだけである。そこにあるのは、他人に自らの責任を転嫁し、自分を責めようとはしない怠惰な自分の成れの果ての姿である。


 僕はたいへんずるい人間である。誰かの失敗も成功もその過程を聞いてはほくそ笑み、ただただ聞き耳を立てているだけなのである。別にお節介をしようとは思わない。勝手に聞いた話に共感して自分の意見を言って、自己満足に浸りたい訳ではない。僕はただ待っているだけなのだ。僕を本気にさせてくれる人や物を。


 そう、これが冒頭で説明したことの始まりである。

 これは今に始まった事ではない。去年も一昨年もだ。特にひどくなったのは去年からだったか。いや、高校生のころもこんなことを考えていた気がする。そんなことを言ったら、これは中学生の頃まで遡るのではないかという気さえする。でも、今はそんなのはどうでもいい。いつ始まったとて、今は今の僕を記録するだけなのだから。

 「最近は」なんて響きを何度も重ねれば、それはいつものことである。喋れなくなった。端的に言えばそうだ。心の底から笑うことが少なくなった。表情筋が固くなった。感情が表に出ることは少なくなった。他人の前ではほとんどなくなった。視力が落ちた。いや、それは関係ない。いや、関係なくもない。裸眼の時の僕は相手の顔に自分の顔を30cmのところまで持ってきて初めて相手の顔を認識することができる。だから、裸眼の時は誰の顔も見ずに1人で隅にいる方が楽なのだ。

 話を戻そう。本気になれる人や夢中になれるものと冒頭に説明したが、詳細な話をしていなかった。別に知りたい人がいるとは思えないが、僕が書きたいから書くのだ。それで良いと僕は自分を褒めることにする。
 他人を前にした僕は、目の前の相手に対して本気で接したいと思う。接したいと思っていると思っている。だが、僕の目の前に現れる人は僕を本気にさせてくれない。こんな書き方をすれば、きっと僕は他力本願の怠惰な人間だとこれを読んでいるあなたからは軽蔑されることだろう。それを承知で僕はこれを書いているし、これは他人に対する自らの恥ずべき行為を公にしているだけである。だが、本気で接するとは一体どのような姿を言うのか?相手に対して誠心誠意向き合うということを指すと言葉では言うが、誠心誠意というのは一体どのような心持ちなのか?相手に敬意を払うということである。敬意を払えばどう…という具合に思考は逡巡し、いずれ自分が何と向き合いたかったのか忘れる始末である。これを何度も繰り返して、こうした形でまとめようという気になった自分が今これを書いているのである。

 ここでまた話は変わって。いや細かく言えばこれに関連することなのであるが、僕は他人を目の前にした時に真の自分を見せないという癖を身につけてしまった。それは他人の他人に対する向き合い方に不満があるからだと先程の逡巡した思考が結論付けた。他人に対していつでも本気で向き合う人を僕はあまりよく知らない。それは僕の視野が狭いことが原因なのか、本当にそういう人がいないのかというのは僕にはわからない。今はそれはどうだっていい。
 僕は他人を知らない。知ろうとしない。興味がないと言ってしまえばそれまでだが、これによって僕の生活に多くの支障が出始めている。興味がないのは事実だし、これは僕が自分本位で生きていることの象徴でもある。かといって他人のために生きようとすることは、実際のところ大変傲慢な思い込みであることを最近悟った。昔は誰かのために生きたいとか、社会のためになる仕事に就きたいとかこの社会の中における自分の役割を求めていた。しかし、社会との関係が失われつつある僕の現状において、社会のために生きたいと思うことはただの綺麗事に過ぎない。自分の世界に閉じこもることはすごく楽だけれど苦しいことでもある。これには、どんな物事でも捉え方次第でどうにでもなってしまうということを痛いほど感じる。

 自分の世界に閉じこもってしまえば、誰かを傷つけることはないし、誰かから自分を傷つけられるという心配も無用である。だが、それと同時に徐々に自分を失っていくような感覚がある。他人という比較対象があれば、自分の存在をいとも簡単に自覚することができるが、自分ひとりではなかなかに難しい。僕自身、自分のなかに潜む異なる属性の自分たちを比較対象にすることでそれを実現しようとしてきたが、なかなか上手くいかない。上手くいったとしても、自分の心は疲弊していくばかりである。これが。自分の世界に浸っていく中での苦しいと言える側面である。僕自身は自分が世間から見て少数派の人間であると勝手に思っているが、そんなことはどうでもいいことなのだ。多数派も少数派も分割していけば、一人の人間に行きつくだけで、これが僕という人間であって人格であるのだ。

 だから、これはあくまで僕自身の捉え方の問題であって、いかに他人に対して求められる自分を演じられるかということである。そして、自分に対してはいかに自分の求める自分を演じられるかということである。

 人間である以上、社会と何らかの形で関わりを持っている方が生きやすいようにこの世界はできている。と、僕は勝手に思っている。僕は生きていることは苦しいことだと思う。僕にとって、社会とつながりを持つことは苦しい。自分の領土の中で生きていた方が楽だと思うし、実際今の僕は社会で生きることは生きづらいと感じている。ここで、一つ断っておくに、生きることは別に苦ではない。「社会のなかで生きること」が苦しいということを生きづらいと僕は言っている。

 結局、ここまでつらつらと書いてきて、苦しいと感じている現状に対して明確な解決手段が見つかったわけではない。ただ、今の僕が考えていることを書き連ねただけである。それぞれにはっきりとしたつながりがあるわけでもなく、本当にただただ頭に浮かんできた言葉を重ねていった結果がこれである。ただ一つ言えるのは、これを書いたことで僕のなかのお悩みBOXが一時的に空になったということだ。これで、また明日を迎えられる。そういう感覚。

 またね。

最後まで読んでいただきありがとうございます。 皆様から頂いたサポートは今後の自己研鑽のために使わせて頂きます。 僕の書いた文章で何か少しでも感じていただけたら、僕にとってこれほどうれしいことはありません。