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ルッキズムという言葉を使う人が急に増えた話

最近言葉を覚えたてなのか、やたらと「ルッキズム」という言葉を気軽に使う人がテレビでもネットでも増えた印象がある。

例えばSNS上で容姿を悪く言われ、「ルッキズム辛い…」
という使い方をしている人を見かける。
私は、う〜ん?と思ってしまう。

原因をルッキズム(美醜の区別)が存在することにしてしまうと、「容姿を悪く言及してきた人」のことを許していることになってないだろうか?
それは社会構造が悪いのではなく、「人に暴言を吐く」という行為をしたその人自身の問題であり明確にその人が悪いのだ。

ルッキズムという単語が知られ始めた今、
ルッキズムとは美しいか醜いかを区別することといった単純な美醜の話にすると、何が悪いのか?良いものを好むのは仕方がないだろう。という意見が出てくるのは当然である。

そう意見する彼らはまるで感性を失え、何かを美しいと感じるな!と言われているのか?と思い混んでいるのだろう。
もちろんそんなことは人間の摂理に反する。

私が考えるルッキズムとは

美の基準の煽動

である。

私がルッキズムに出会ったのは大学時代にフェミニズムについて勉強していた時である。

女性の人生をマラソンに例えた漫画があった。走っている選手達は女性。グランドを眺める観客席は全て男性だ。
幼児の状態からよ〜いドン!で競争が始まる。
モニターでは美しくなりましょう。と宣伝がかけられる。
成長するにつれ見た目が綺麗な子達は先頭集団に行き、選ばれた子は観客から引き抜かれる。
後方集団の子達は観客からもっと頑張れよとヤジが飛ばされる。
モニターではこれをするとあなたも綺麗になれる、このようになりましょうと広告される。
そして後方にいた1人は広告通りに整形やメイク、ダイエットを重ね、じゃあ私は先に行くね!と主人公を追い越していく。という話だ。

この話を読んで何が違和感なのかを考えた。


差別とは正当な理由なき区別
をし異なる行為をすることである。
美しいとは、こういう顔つきで、メイクで、体型で話し方でというの(世間が煽動した曖昧な基準=正当な理由がない)を一方的に押し付け当てはめる(区別する)ことではないだろうか。私はルッキズムとは美の基準の煽動と定義する。



おわり。


#ルッキズム #エッセイ #美容 #差別

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