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社会階層はどう維持される?【『教育格差』を読んで】

はじめに

 早稲田大学准教授の松岡亮二氏の著書『教育格差—階層・地域・学歴』(筑摩書房、2019年)の感想を述べる。教育の機会格差や最終学歴の差がどのように生じるかについてデータをもとに論じた書籍である。

 本書は、大きく分けて4つのブロックに分かれている。まず、「生まれ」(親の学歴と出身地域など)によって学歴が異なることを示す第1章がある。次に、その差異を生む機会の格差が、未就学段階、小学校、中学校、高校のそれぞれの時期に存在するということが第2章から第5章までで記述される。続く第6章は国際比較を通して教育格差の一般性と日本の教育制度の特徴を確認する。最後の第7章に解決策とまとめが書いてある。


大卒の子どもの方が大卒になりやすい

 本書の肝は、教育格差が「生まれ」によって生じるということである。男女ともに、大卒の子どもの方が大卒になる割合が高い

[前ページに載っているデータは]生まれたときに父が大卒か非大卒かで、二十年後に大卒となっているかどうかの割合が大きく異なったという結果を表しているのである。(p.36)

また、出身地域(三大都市圏か否かなど)や親の職業などの社会階層も大卒の割合に関係している。これらと連動するように、大卒であったり都市に住んでいたりする親の方が子どもの教育を重視する傾向にある。

分析の結果(表1-8)、本人の学歴(大卒・非大卒)による教育価値志向調査が確認できる。(p.54)
大卒割合によって町の文化的雰囲気が異なり、それが教育意識の高低の基盤となっている。教育熱の高い地域に住む子供たちは、周囲の大人から高い教育を受けることが良いことであるというメッセージを意識的・無意識的に受けながら育つことになるのである。(p.61)

このように、「生まれ」によって大卒になりやすいかが異なることがわかる。どうしてこのような格差が生まれるかについては、第2~5章で詳しく説明されている。

 本書のなかで「生まれ」「出身階層」がSES“Socioeconomic Status”という指標で表されることもある。

[SESは]依拠する研究群によって言葉が異なるだけで意図するところはだいたい同じで、経済的、文化的、社会的要素を統合した地位を意味する。世帯収入(経済)、親学歴・文化的所有物と行動(文化)、職業的地位(社会)などを指標化して1つの連続変数とすることが多い。(p.81)

まさに、親(や地域)のSESによって、子どもの教育機会や最終学歴に格差が生じるということなのである。


因果関係を実証する難しさ

 本書にはたくさんのデータが登場する。親の学歴などのSESと「(とりわけ大卒につながるのに)望ましい」項目の割合や程度の関係を示したものが多い。それらは、「親学歴などのSESが高いほど教育において一般的に『望ましい』状況になる」ということを全体として示している。

 ところがそれらについて、親が高SESである“から”望ましい状況になっている、のかは不明である。たとえば、幼少期の意図的養育(親が子どもに望ましい生活様式を形成させるために意図的に介入する養育で、大卒の親の方がする傾向にある)の一例として、大卒の子の方が「ゲーム時間ゼロ割合」が高いということが出てくる。

親によって幼少期から構造化された時間を過ごすことで、森羅万象に興味を持って「自発的」に学習し「優秀さを」を追求する(p.268)

筆者は構造化された幼少期と後の学力格差について以上のように書いていて(別論についてであったが傾向は同じであると考えられる)、たしかにゲームをさせないことは「構造化された時間」の例としては格好であり、幼少期にゲームをしないと義務教育にあがってから学習成績が伸びそうであるというイメージはある。しかし言うまでもなく、成績が高く結果的に大卒になったことの要因は、幼少期のゲームの有無ではなく他の高SES的要素かもしれない。本書に載っているデータはすべてにおいて「ゲームの時間が少なかった“から”様々なことに自発的に興味を持った」とか「○○であった“から”大卒になった」とかのように因果関係でつながっていることが確定しているわけではないのにもかかわらず、なんとなくのイメージで「望ましい」教育が浮かび上がってきてしまう。 

 無論、著者も因果関係が実証しづらいことには自覚的である。

さらに話を複雑にするのが、因果関係の特定の難しさである。(p.22)
分析可能なデータを経時的に取得することが大切だか、それだけでは因果的な「効果」の特定は難しい。(p.296)

しかし、因果関係までは認められないデータをどのように扱えば有意義なのかの説明がそこまでない。因果関係があるのかもしれないが、偶然かもしれないし擬似相関かもしれない、となったとき、どこまでを解決すべき「問題」であると捉えるのかという問いは非常に難しく、手も打ちづらい。であるから、筆者にはこうした「傾向や相関はみえるが因果関係の有無までは不明」というデータの扱い方をもう少し教えてほしかった。


著者の「価値・目標」をまず知りたい

 筆者は、解決策を提示する最後の章で、建設的な議論の為に「価値・目標・機能の自覚化」ということを挙げていた。

理想的な教育を語るのはよいが、現実的に実施し結果に結びつかないのであれば、子供たちの人生の可能性を拡大することにはならない。「平等」なのか「自由」なのか、どちらに軸足を置くのか自覚することが重要だ。換言すれば、一つの実践・政策・制度では、どちらかを重視すると、一方を軽視することになる。どちらに進んでも誰かの可能性が失われる―血が流れるのだ。(p.260)

教育制度、あるいは教育社会全体としてどのような状態があるべきかという価値観やそれに伴う目標をあらかじめ決めて、それらが達成されそうな機能を提示してから政策を議論するべきである、ということである。これは全うで、教育政策以外にも通じる一般的な姿勢である。

 しかし、筆者自身が思い描く教育社会の理念がいまいちわからなかった(当然私が見逃しただけの可能性もあるが)。『教育格差』というような書籍を書き、解決策を提示する章を設けているぐらいであるから、「格差はないほうがよい」と考えていることはなんとなくわかる。それでも、「○○なので教育格差は縮めるべきである」とはっきり書いてほしかったし、そうすれば教育格差について分析したうえで発見した「問題」がより明白になる。低SESの家庭についての記述も多くあったが、下のレベルを上げることが重要なのか、それとも上層部と下層部の差が小さくなることが重要なのかで、考え方が変わってくる。

価値の相克と向き合った上で、「結果としてより厳密な身分社会になったとしても、個人の自由(な選択)が尊重されるべきだ」という主張であれば、それは一つの意見だ。後半の耳あたりのよいところだけを主張する偽善(あるいは単なる無知)より、よっぽど建設的な議論に繋がる。(p.262)

実際に上記のようなというような格差をある種「黙認」するような価値も紹介される。それが善いか悪いかというのはまさしく「価値」の問題であるが、筆者はどこか俯瞰している。客観的な視点は重要であるが、その中での筆者の立場も次元が違う議論として必要ではないであろうか。

 私個人的には、SESなどと教育機会や学歴が密接に連動しているとしたら、その格差をなくしたいと叫ぶことは、究極的には「富めるものは富んで貧しいものは貧しい」という資本主義的な考え方そのものから変えなければならないということになると考える。経済格差を是正することが教育格差を是正することにつながっていることになるからである。そうであるとしたら、やはりどこまでが平等であるべきかという経済的な再分配に似た議論になるから、やはり筆者の教育社会における価値的目標が知りたいところである。


個人的な教育に対するインセンティブとの相克

 仮に、親のSESと子の学力(学歴)に因果関係があるとして、さらに格差は縮めたほうがよいものとする。とすると、これらの考えは、ある個人が「教育に力を入れよう」と考えること—自らの子のために大卒になって教育に投資しようと考える個人の意志と相反するのではないであろうか。それこそ「血が流れる」のである。

 勉強に勤しんでいる本人は、「親が大卒であるから勉強ができている」と考えることは少ないであろう。とすると、「親が大卒→子も大卒」の因果関係があったとしても、本人が主観的に努力することは多くの場合必要であり、そのインセンティブが存在する(別論であるが、「親が大卒であるから子も大卒」を強調しすぎると、この主観的な「頑張り」を軽視することに繋がりかねない)。そして、そこには、自らが子どもを設けた場合、その子にも教育機会を与えたい、と思うこともありえる。そして実際に親になったとき、高SESの親が子に対して幼少期から意図的養育を施し、より多くの教育を受けること期待し、様々な学習機会をあたえ、その子も大卒になる可能性が上がる、という図式が完成する。

 著者はこういった親の「愛」に対して、次のように述べる。

低SESの子供たちの可能性に投資しないことで、わたしたちは潜在的な損失を受けているかもしれない。(p.314)
一人ひとりが学識を高めることそのものも、社会の成熟度と幸せの最大公約数を上げることに繋がるのではないだろうか(p.315)

 しかし、「社会全体のレベルを上げると良いことがある」という主張は、「格差を是正するべきである」という主張からずれてしまう。また反対に、社会全体のレベルを上げることは、格差を維持したままでも可能である、というようにも考えられる。「社会全体のレベルが上がることは結構であるが、であるからといって格差を縮めるために自らの子が足を引っ張られる理由にはならない」と多くの高SESの親は思うであろう。

 そもそも、上記のような親の「愛」が成立するのは、格差があるからである、という考え方もできる。というのも、学歴が「高い」からさまざまな場面で有利になって生きやすいというのは、相対的な評価であって、自分の子どもよりも「下」の人間がよりたくさんいて、格差があった方が際立つのである。本書でも、「椅子の数」という表現が使われる。つまり、格差を縮めるべきである、というところから出発すると、そもそも自分の子の教育に投資する「旨味」が減ることになり、個人的な教育投資のインセンティブと両立することが難しくなってしまう(そうであるとしても、格差はないほうがよいという思想も当然ありうるが)。高SESですら教育に投資しなくなったら、それこそ社会全体のレベルは下がりうる。

 このように考えると、まさに経済の再分配のように、「個人として○○したい」ということが、「格差は小さいほうがよい」といった社会全体としての理念と見事に矛盾してしまう。教育格差を縮めようとする動きは、現在上層にいる人間に「血を流させる」行為になるのである(そもそも、経済的な再分配と違って、教育格差をどのようにして再配分するのか、できるのかという問題も出てくる)。


おわりに

 格差を縮めるとまではいかなくても、社会全体の教育機会やそれに伴う学力の向上が望ましいのは異論がないであろう。そのためには低SES家庭の状況を知る必要があり、データであるとなお望ましい。そうした目的に対してでも、本書はうってつけである。

 また、社会問題の解決のヒントを探すという「高尚」な動機でなくても本書を読む意味がある。本書にある様々なデータやそれの解説は単純に「読み物」として面白い。また、個人的な子育てのヒントも得られるかもしれない。300ページ超と、他の新書に比べたらボリュームが多いが、その分学べること、楽しめること、考えられることも多い書籍である。

[引用内での[]は意味を分かりやすくするために付け加えたもの。]

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