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自由と平等を自由・平等に決めよう【『〈私〉時代のデモクラシー』を読んで】

はじめに

 東京大学大学院社会科学研究所の教授である宇野重規氏の『〈私〉時代のデモクラシー』(岩波書店、2010年)の感想を述べる。10年以上前に書かれた本書であるが、現在でも十分に理解できる分析が豊富に書かれている

 本書は第一章から第四章までの4つの章で成り立っている。一章と二章で現代社会の様相を整理したうえで、三章はその現状のなかで国家をめぐる政治がどう変化したのかを論じ、最後の四章でデモクラシーの課題と打開策を思索する。


再帰的近代における「平等」と「個人主義」

 第一章と第二章は、〈私〉時代とはどのような時代なのかが記述される。「はじめに」で、我々が生きているのは折り返し点を通過した近代であると説明される。

 そこで重要な着眼点となるのが「平等意識の変容」(一章で述べられる)と「新しい個人主義」(二章で述べられる)である。

 近代になって「平等」という観念が定着しはじめたわけであるが、それが近代の「前半」では、せいぜい同じ「閉じた共同体的空間」の内部での意識であった。ところが折り返し点を過ぎると、その境界線がなくなり、人びとの平等意識が覚醒する。

現代は、世界的に〈境界線〉の変容が見られる時代です。〈境界線〉の変容が見られる時代、それは否応なく平等・不平等をめぐる意識が覚醒する時代です。ひとたび覚醒した人々の意識は、新たな参照空間によって一応の安定を見出すまでの間、不安定な状態に留め置かれるでしょう。(p.28)

 また、新しい個人主義が登場するのも再帰的近代の特徴である。社会的な、構造的なシステムが原因である問題も、個人のせいにされ、個人の運命であると片づけられる。たとえば、「家族」というものの存在感が薄くなり、時間的な、世代的なつながりも希薄になる。

現代社会において、「自分自身である」ことはたしかに、権利であると同時に義務といえます。この両義性を見すえた上で、「個人化」した社会をいかに安定したものにしていくか、確信できるものを欠いた状態のなかで、自己と他者に対する新しい確実性を、いかに共同で構築していけるか。(p.72)

 これらの現象の具体例として、フェミニズム運動の興隆が挙げられるであろう。近代の前半ではまだ、女性は家族を守る「主婦」になる性であった。しかし再帰的近代になると、「家族」といった共同体の〈境界線〉が薄まるのと並行して女性が社会で働くようになった。それに伴いフェミニズムは、家庭内の男女不平等だけではなく、職場をはじめとする社会のあちこちにある「差別」を告発し始めた。さらに、ある女性個人ではなく、構造によって女性が不利な立場に置かれているのである、と主張するのもよくある事例である。このようにフェミニズムは、再帰的近代では変容した平等と個人主義の意識に沿って運動をしたといえよう。


浮遊する政治とデモクラシー

 「平等意識の変容」と「新しい個人主義」によって、国家をめぐる政治は変化した。様々な事柄が政治争点化した一方、共通の基盤となる政治におけるいわば「大きな物語」が見えなくなったのである。

現代における政治の貧困をもたらしているものは、新たなる平等化の波によって、政治的に声をあげる人が増え、政治的なアクターが増えるなか、共通の理念的土台の不在が露呈していることによります。(p.131)

 こうした〈私〉時代の政治で、どのようにすればデモクラシーは機能するのか。そのためには、モラル、自己や他者へのリスペクトが必要なのであるという。

社会環境の整備を通じて平等社会のモラルを構築すること、すなわち、一人ひとりの個人にとっての自己へのリスペクトと他者へのリスペクトの間に有機的な連関をつくりだすことが、ここでの目標となります。(p.166)

 そして、さらに「理念的土台」としての自由や平等の内容を決めていくプロセスも必要であるとする。

デモクラシー社会のダイナミズムは、自由と平等の内容を、自由で平等な仕方で決定していく、そのプロセスから生まれてきたといえるかもしれません。このプロセスの質と範囲こそが、デモクラシーの程度を決めてきたのです。また、未来のデモクラシーを決定していくことにもなるでしょう。このプロセスは、一人ひとりの個人や集団が、決定過程に当事者として参加し、自ら納得していくプロセスであるといえます。(p.176)


自由と平等の内容を考えるプロセスとは

 本書では、〈私〉時代にデモクラシーを機能させるためには、自由と平等の内容を決定するプロセスに我々が当事者として参加することが重要であると結論づけられた。しかし、その場がどのようなものなのかという詳細は読みとられなかった。選挙以外に、人びとが国家をめぐる政治についても含めて議論する場所は、現在あるのか、あるいはないとしたら構築可能なのか

 インターネットはそうした場になりうるか。たしかに、比較的自由な発言が可能で、メディアなどの大きな企業や政府以外でも同じようにある種平等に発信できる。一方で、インターネットはデマが多く、議論というよりも、「自分が正しいと信じて疑わず、言いたいことだけ言って他人の声は聞かない」という人も少なからずいる。

 とすると、結局のところ、インターネットを、あるいは別の場所を自由と平等の内容を議論する場とするとしても、モラル、自己や他者へのリスペクトがデモクラシーに足りないということになってしまう。それを制度―国家による法やインターネット上のサービスのルールによって規定することは可能なのか、または教育に拠るしかないのであろうか。


おわりに

 再帰的近代に突入し、私たちの規範的意識が変わっている様を(当ブログでは割愛したが)さまざまな視点で紹介し、まとめている。そしてそれを踏まえたうえで、どのようにすればデモクラシーが国家をめぐる政治において稼働するかを議論した。しかし、デモクラシーの課題は出版から10年経った現在でも山積している。

 本書は、政治理論を「ガチガチの」哲学的理論ではなく、教育学や社会学などの分析も合わせた現代社会分析によって記述するというところが興味深かった。人々の意識がどのように変遷していて、それによって政治がどう変化し、デモクラシーの課題は何になるのか、という問いが、非常に読みやすい書き方で書かれている。

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