珈琲の大霊師242
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第30章
アントニウス・カルラン
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「申請書が通り、初歩問答と、調査が完了するまで2週間程かかるそうですので、アントニウス氏の元に行って帰って来るだけの時間は十分にあるかと思います」
と、説明を受けたバリスタが、ガクシュの拠点に戻って来たのはその日の夕方だった。小さな厨房では、ドロシーがくるんくるんと回って水を出して、モカナが瓶に貯めている所だった。
「そうか。とうとうだな。元々そいつに合うためにマルクを発ったわけだし」
「途中で無限回廊でトラブルに巻き込まれたり、色々ありましたから随分遅くなっちゃいましたもんねえ」
と、無限回廊ではジョージの右腕として補助をしたシオリが苦笑いした。
「そういえば、馬車では珈琲の事ばかり聞いておりましたが、皆様はどういったご用件でアントニウス氏にお会いになるんです?」
「ああ、話してなかったっけか?モカナなんだがな、ある日山から珈琲を広める為に降りてきたらしいんだが、どうにもその故郷の記憶が曖昧なんだよ」
「えっ?……はて、どこかで聞いたような……」
バリスタが額に拳を当てて唸ると、シオリがすかさず補足する。
「山の御使い、ですよ」
「そうそう。それで………えっ?」
「私は元々マルクのしがない本屋の娘なんですけど、ある日この2人がうちに来て、モカナちゃんの故郷の手がかりを探してるっていうから、話を聞いたら、山の御使いにそっくりな事を言うから……」
「や、山の御使い!?歴史上に点在する転換期に必ず現れて新技術をこの世界に文化革命を起こすという、あの山の御使いですか?いや、でも、確かに珈琲は茶に続く世界的な嗜好品になりえる素材。モカナ様が山の御使いというのであれば、納得です」
「そうなんですよ。で、詳しい話をアントニウス様に聞きに行こうという話になったんです」
「なるほど……。もしそうであれば、私は本当に幸運ですね」
と、今更にバリスタは自らの手にした好機を実感するのであった。
内海の畔に存在する無数の岬の1つ、アモー岬に帰り着いたのは夜も半ばに差し掛かった頃。雲一つ無い星空、近所に民家も無いこの岬は、私だけの小宇宙だ。私という現象は、ここにある。
月は半欠けだが、慣れ親しんだ道を歩くには十分な明るさがある。出かける前と比べて、随分と草木の背が伸びているな。明日あたり、誰かを雇って整備してもらうとしよう。
懐から真鍮の鍵を取り出し、錆びついた鍵穴に差し込む。奥に押しながら右に回すと、ギッと金属が軋む音がして、扉が自分の役割を思い出した。
「ただいま」
誰も聞いていまいが、挨拶をしてしまうのは、私が孤独だからなのだろう。
「今回は長かったな」
ひとりごちる。
私の名前は、アントニウス=カルラン。歴史という大海を見守る現象。
この世界で、何か大きな変化が起きつつある。その変化の切欠は、根源を追うと水の大精霊の神殿、通称「水宮」のある貿易都市マルクからのようだった。
歴史上犬猿の仲であるはずの、マルクとサラクが貿易の再開と、密接な経済連携を取っていると聞いて、私は現地に赴いた。そこには、「カフェ」というサラクとマルクの現在の関係を表す飲食店が経営されていた。
珈琲という新しい嗜好品を提供する場という事で早速店のメニューを2週間程かけて制覇してきたが、珈琲というものは実に素晴らしいものだった。カフェは朝早くから開かれる。これは、朝一の珈琲で頭を覚醒に訪れる客が多いからだ。
「いやぁ、何か分からんが、ここの一杯を飲んでから仕事すると頭が冴えるんだよ」
と言ったのは、市場でセリを担当している自治組合の代表。確かに私も珈琲を飲んだ後、宿に戻ってから手記を書いたが、いつもより随分と筆が進んだ。
2週間で作った珈琲の習慣は尊かったのだが、カフェの店長コーディー氏がサラクとマルク間の交渉にも直接関わっていた為、実りの多い聞き取りができた。
サラクのリフレール皇女が珈琲の会合に出向く為に無限回廊に向かったと聞いて、私も無限回廊行きの船に乗った。待っていたのは、厳戒態勢の無限回廊だ。なんでも、珈琲の第一人者の誘拐未遂事件があったとの事。
珈琲の魅力に触れた者として、また歴史家として世界的に売れる事が分かり切っている商品の第1人者。その価値は山ほどの金にも劣るまい。しかも、その1人は少女だというのだから、強引な手段に訴える国があったとしても不思議ではない。むしろ当然と言える。
無限回廊では、第1人者による組み合わせ珈琲(これを仮にブレンドと称す)の試飲会が頻繁に行われていたらしく、いくつかのブレンドが無限回廊に開店したばかりのカフェで販売されていた。当然、3日かけて全てのブレンドを制覇した。実に素晴らしい時間であった。
波のざわめき、鳥の鳴き声と断崖を駆け下りる風に身を委ねながら、万国感溢れる様々なブレンドを楽しむ事は、人生の充実を図る上で実に有効であると言わざるを得ない。
この時、まだ未定の店主に代わって珈琲を淹れていたのが、先日までサラクで謀反を図っていたとされるドグマ氏で、私はサラクとマルクの国交正常化に伴う珈琲の物語を聞かされ、まるで少年のように心を躍らせたのだった。
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