珈琲の大霊師119
数日後、その朝ジョージは妙に早く起きてしまっていた。
テントからぼんやりした頭で出ると、ぐったりした2000人の貧民部隊が寝息を立てていた。
(本命が敗れたドグマってやつは、どう出てくるかな?うーむ、まだ眠くて頭が働かねえなあ。あー、こんな時はやっぱり珈琲だよなあ)
そんなことを考えていたから、ジョージはとうとう自分が珈琲恋しさのあまり幻覚を見るようになったのかと思った。
嗅ぎ慣れた、でも少し違う香りが漂ってきたのだ。それは、絶対に間違いようが無い。珈琲豆を焙煎する時の香りだ。
足は、勝手にそっちに向かっていた。
(やべえ。体が言うこと聞かねえ。これが、俺を誘い出す術なら死んだな俺)
足はだんだん早くなって、小走りになっていた。
そこは、オアシスの畔だった。朝日が、湖面でキラキラと踊っていた。
そこに、煙があった。パチパチと細かい木の枝が弾ける音がしていた。
そこに、フード姿の小さな背中があった。
ざらっざらっ
ジョージの大好きな音だ。豆を炒る時の音だ。
「ふっ」
フードの袖についた豆の皮に、息を吹き掛けて飛ばす仕草が懐かしい。
ジョージは、それが誰か確信した。
今すぐにでも駆け寄って抱き締めたいという想いが膨れ上がったが、ジョージは過去最大の自制心を発揮してその場で踏みとどまった。
そんな事をすれば、あの珈琲豆が無駄になってしまうからだ。珈琲を淹れるあの瞬間は神聖な物だ。一瞬たりとも気を抜けない。
あれは、豆との会話なのだ。今、豆がどんな状態か。語らぬ豆に目を凝らし、耳を済まして、全感覚からその様子を伺い知る。
その神聖な儀式を中断させる事は、珈琲を愛する者としてのプライドが許さなかったのだ。
ジョージは、気配を消して少し離れた木に背中を預け、モカナの斜め後ろからその様子を伺った。
(なんか、あいつ少し大きくなったか?まあ、成長期だろうしなあ。何歳か知らないが。しかし、あいつ俺がいない間も珈琲を淹れてたのかな?手首の使い方がまた上達してやがる。おいくそ、誰だよその珈琲飲んでやがったのは。それは、俺のだぞ)
少し目を凝らして、調理器具の中の豆を見る。
(お、やっぱでかいな。あれが、ツェツェで取れた珈琲豆か。結構違う香りになるもんだな。あ、焙煎終わったな。すり鉢の出番か)
ジョージの予想通り、モカナはすり鉢を取り出して、そこに焙煎した豆を入れた。
早速ごりごりと磨り潰すかと思いきや、モカナはがしがしと棒で叩き始めた。
(お?なんだあれ。あー、でかいからあのままだと磨り潰せないのかな?ある程度砕いてから磨り潰すのか)
と思いきや、粗めに砕いた所で鍋を取り出すモカナ。砕いた豆を入れて、水を注ぎ火にかけた。
(なに?もう抽出するのか?あんなにでかいまま?どうなってんだ?)
モカナの真意を計りかねていたジョージの疑問は、すぐに吹き飛ぶことになる。
その鍋から、濃厚な珈琲の香りが漂ってきたからだ。
(おお、おおおおぉぉぉぉぉ……。こ、こいつは、やべえ。涎が。あの粗さで、この香りかよ。そりゃあ、あれ以上細かかったら余分なものまで出過ぎてまずくなるはずだ。さすがはモカナだな。ここに来るまでの間に色々試して来たんだろうな)
ごくりと喉が鳴った。
ふとここで気付いた。モカナの淹れている珈琲は、誰のものなのか?という疑問に。
モカナ自身の物か?
(いや、違う。あいつは、自分のを淹れる時はもっと楽な顔をしてるはずだ。あんな、真剣に、でも楽しそうに淹れるモカナ、見たこと、あったっけか?)
その瞬間、ジョージの背中を冷や汗が伝った。
(俺以外の、誰かにそいつを淹れてるのか?そんな顔をして)
猛烈な危機感と共に、強烈な嫉妬が胸を渦巻くのが分かった。手を痛いほど握りしめている自分に気づいて、ジョージは自分自身に驚いた。
(畜生、そんな事ってあるか!許さねえぞ。モカナの命は俺が救った。だから、俺の物だ。だからあいつが淹れる一番美味い珈琲は、俺の物だ。俺以上に、モカナの珈琲を理解できる奴なんているはずがねえ!そんな奴に、あいつの、あんな顔で淹れた珈琲を飲む資格なんてねえ!!くそったれ、どいつだ。場合によっちゃ手段は選ばねえぞ)
ぐらぐらと煮え立つジョージの頭は、マルクの闇を支配していた頃に戻ろうとしていた。
人の命を平気でやり取りしていた、あの頃に。
暗い嫉妬の炎を燃やしている内に、モカナが立ち上がった。
ジョージの視線が、獲物を狙う肉食獣のようにそれを追った。
(淹れ終わってたのか。あの顔、会心の出来だな。渡すのが楽しくて、わくわくしてる時の顔。くそっ、ぶっ殺す。いや、目の前で奪ってやる。珈琲も、モカナもだ。モカナが泣き叫ぼうが、文句は言わせねえ)
楽しそうに、スキップでも始めそうな軽い足取りで歩き出したモカナの後ろを、ジョージは音もなく尾行した。
丘を1つ越えた先に、いくつかテントが並んでいた。モカナが、その内の1つに向かっていく。
ジョージの中の殺意が膨れ上がった。モカナとの距離を縮めて、すぐにでも奪える距離を保った。
(見てろよ、絶望させてやる)
テントの幕を、モカナが上機嫌に勢い良く跳ね上げるのを見て、ジョージの嫉妬が爆発した。
モカナを抱き抱えるべく、走る。
その時だ
「ジョォージ、さんっ!!朝、でっすよー!!」
(はっ!?)
輝かんばかりの笑顔で呼ばれた名前は、すっごく聞き覚えのある名前で、それは憎むべき相手になりえない世界唯一の相手で、ジョージは慌てて辺りを見回した。
(ここ、俺のテントー!!!!?)
嫉妬を燃やしていたせいで、視野狭窄に陥っていたのだった。
「あ、は、は」
(俺、今、世界一の馬鹿だわ)
どっと吹き上がった安心感が、目標を失った嫉妬を消し飛ばし、いとおしさを巻き上げた。
「あれ?ジョージさん?……テント間違えたのかな。ここだって聞いたのにな」
中では、ジョージが居なくて不安になっているモカナがいた。
ジョージの脳裏にここまで来るモカナの顔が思い出される。ジョージが猛烈に嫉妬した、珈琲を淹れる時の顔、歩いてる時の楽しそうな顔。その全てが、自分に向けられていたのだという事に、ジョージは気付いた。
「ここだ!馬鹿!」
溜まりかねて、ジョージはモカナを後ろから抱え上げ抱き締めていた。
柔らかい、少女特有の匂いと、濃厚な珈琲の香りがして、ジョージはそれを思い切り吸い込んだ。
「ひょえっ!?」
急に持ち上げられて驚いたモカナだったが、絶対に珈琲を入れたポットを離さないのはさすがだった。
「え?へ?あれ、ジョージ、さん?」
「馬鹿野郎、待たせやがって。良く来てくれたなこら。嬉しいぞ、こいつめ」
ぐりぐりとモカナの頭に顔を押し付けるジョージ。
こんな直接的な愛情表現を今まで受けた事の無かったモカナは、あわあわと羽が生えて飛び上がりそうな心臓を押さえ付け、深呼吸して落ち着こうとした。
「あ、の、ジョージ、さん。珈琲、落ち、ちゃう」
力強く抱き締められすぎて、締め付けられた腕が痺れてきたのだ。
「おう、任せろ」
と、ジョージはひょいとモカナからポットを取り上げて、近くの机の上に置いた。
で、その腕をまたモカナに回す。
「あの、ジョージさん。飲まないんですか?」
「もう少し」
「ジョージさん」
少し強めに、真面目にモカナは言った。
「珈琲が冷めます」
「よし飲もう」
ジョージの切り替えは早かった。
(それに、これ以上はもうボクの心臓がもたないよぉぉぉぉ!!何!?もう少しって何ー!!?)
と、未だ混乱を極めているモカナは、かつてない集中力で平静を繕い、持ってきたカップに、ポットの珈琲を注いだ。
ふわりと、珈琲の香りがテントを満たしていった。
すると、不思議なことに、あれだけ留めようのなかった愛しさも、心臓が運動会を始めたような動悸も、おだやかなものへと変わっていくのだった。
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