ど〜ぞ
反省してヨガのクラスに2回行った。
10年ほど前から通っていた個人で教室を営む先生のスタジオ。
しかーし、私がそのスタジオに足を運ぶのはもう1年以上前のこと。
予約をする。
「また、ゼロから始めます」
先生からの返信は「ど〜ぞ」。
スタジオに着くと、以前はなかったアップライトピアノがあった。
その日の参加者は4人。
私はおそるおそるからだを動かす。
おおよそ先生のリードはわかっている。
からだほぐし。気持ちいい。
おしゃべりしながら準備運動をする。
「柔軟体操くらい家でやればいいことはわかってるんだけど」
といつものいいわけ。
「できないですよね」
先生がいう。(えー、それでいいの?)
自分の言葉に、応答した先生の言葉に突っ込みを入れている自分を見た。
わたしは「わかっている」のに、なぜやらない?
「できない」、だからここに来る、でいいのかな?
コロナ禍でWEBでレッスンに参加したのは1年半前だった。
スタジオでやるのとはやっぱりちがっていて、集中力に欠けた。
なぜなんだろうか。先生の「気」が感じられないからだろうか。
先生はいつもどおりのリード。
その姿と声を聞きながらアーサナを行う。
わたしの部屋のがちゃがちゃのせいだろうな。
ヨガをやるとき、その空間が精神的な面に影響するのだろう。
スタジオでのヨガは久しぶりだった。
だけど、思ったよりもからだが覚えていて、動くことができた。
さぼりさぼりでも、長くやってきたことに少しは意味があったのか。
あとは、続けるかどうかだ。
予約をして、「ヨガをやるぞ」と意気込んで、
ヨガに集中できる空間でやる——
そうすれば「続けられる」かな。
途中でさぼるのは私。それを止めるのも私しかいない。
私が「今日はさぼっちゃおう」と思っても、
おそらく先生は
「ど〜ぞ」というのだ。
「やりたい」と思うときも
「さぼり」を決めるときも
言い訳をするときも
すべて「わたし」なのだ。
ただ、思う。
私は私の中だけにいない。
「やりたい」と思ってそこへ向かうことができ
「さぼる」とレッスンを遮断することもでき
まわりに言い訳をする社会性?ももっている。
人は、わたしは、
この空間にあり、どこかへ向かい、
誰かと会い、まわりと交流している。
たとえ一人でいるときでさえ、
そうなのだ。
ヨガをさぼるわたしが、もっと多くの交流をして
楽しいわたしになることを教えてくれたのかな。
また来週の予約をしよう。
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