『教科を越えた「書くこと」の指導』はたいへん良い本なのでみんな読んで勉強するといいと思う。

届いたので読んだ。面白い。えらい。みんな読んだらいい。安いし。

副題にはいちゃもんをつけたい気分になる。副題は「事実を伝え、意見を述べる力を育む」である。反〈事実と意見の区別〉派の私としては気にいらない。しかし、序章を読むと次のようにある。

それぞれの教師が報告する実践には、「事実を伝え、意見を述べる」ことの指導に意識的には主眼を置かない、たとえば創作活動の場面に言及するものもある。しかしそれも相手と目的に応じて、的確、適切、効果的に「書くこと」の力の育成を目指す教師たちの主体的な取り組みには違いない。先述のとおり、本書の目的は、そうした教師たちの取り組みを応援することにある。
したがって、本書では「書くこと」の内容をあまり狭く限定しないことにした。

pp.3-4

実際、ぱらぱらと読んだだけだが(そしてほぼ国語の実践報告以外を読んだわけだが)実践報告では、この副題は意識されない。いかに書かすか(または意図的に書かせないか)について書かれている。

相手や目的を意識して書く。これが最も重要である。「事実を伝え、意見を述べる」ことは、その結果必要に応じて起こる。

これらの実践報告は、とても具体的で参考になる。面白い。

例えば、あすこまさんの報告を読む。おそらく私の教育観はあすこまさんとはかなり異なると思う(これはあすこまさんも同意すると思う)。

例えば、「あなた自身と書くことの関係を軸において、書くことの指導法を考える」(p.25)というのは、まったくその通りだとは思うものの、無責任な感じもする。少なくとも、この書き方で、「よし、書かせてみよう」と思うようになる先生は少ないのではないか。だから私なら、もう少し踏み込んで、具体的で細かなことを書くだろう。原則は措いておくかもしれない。

また、フィードバックについても、私はほとんどネガティブなフィードバックばかりしている。ほめるときは短く、端的にほめる。「えらい。」「すごい。」と書く。しかし、ほとんどのコメントは、不備・不足・不十分の指摘に終始する。

他の実践報告も同様に、私とは違う。例えば第2章の渡邉久暢氏の「書く能力を育む単元だからこそ教材が重要になる」(p.31)とも思わない。どんな単元でも、問いや課題によって書くべきことができるはずである。だから、教材を問わず、どんな単元でも書くことを入れるべきだと私は思う。やたら複雑な単元になると、少なくとも私の力では統御できない。

日誌による取り組みも多い。農業高校の先生の実践とかすごすぎる。(前任校とほぼ同様の「荒れ」具合で親近感が湧く。)しかし、これも私もあまり乗れない。私は生徒に、できるだけ生徒自身のことを書かせたくない。もちろん志望理由書などは別だ。ただ、〈私〉をテーマにしたくないのである。〈私〉のことは、書いても書かなくてもいい。書きたくないこともあるし、書きたくないことが多いほうが普通だと思う。自分にとって大切なこと、だいじなことであればあるほど、ほかの人に気軽に読ませる気にはならない。少なくとも私はそうだ。だから、日常について書かせるのも気が引ける。

とはいえ、自分の実践と比較して、こんなふうに考えられるくらいに、この本の実践は具体的で細かい。実践者たちが、なぜ、何に、どのくらい力を入れているのかがわかる。それによって、自分の実践と細かい点で比較できる。比較すると、取り入れたいもの、取り入れるべきもの、取り入れたくないものがわかる。なぜそう考えるのかについても考えられる。

少なくとも、筆者たちは、次のように考えているように思う。

  • 書く能力の育成には途方もない時間がかかる。(すぐにはできるようにならない)

  • とにかく量を書かせること、継続することが重要である。

  • できるだけ気軽に書かせればよい。意識させるべきは細々とした〈べからず〉や〈レトリック〉ではない。

  • 目的意識が重要であるとともに、最難関である。目的意識を持たせるのは極めて難しい。

  • 少しでもいいからコメントなどのフィードバックを返すべきである。これが次の〈書く〉につながる。

細かな点、具体的な点で違いはあるが、私は上に挙げたような点に全面的に同意する。〈書かせる〉ことは、このような厳しさ、苦しさとともにある。しかし、だからこそ楽しい。

なにより、筆者たちは、そんな苦しみを抱えつつ、〈書かせる〉ことを心底楽しんでいるように見える。実にすばらしい。

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