しばしん

高校の国語の先生です。

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最近の記事

Excelで解答用紙を作った時に、文字数指定の模範解答を書くのがダルすぎるから書いたコード

たいした話ではない。国語の先生で使いたいと思う人がいれば。 Excelで考査の解答用紙を作る。セル結合して作る。別にデータを処理するわけではないから、躊躇しない。 マス目も2セルを縦に結合して作る。しかし、模範解答を作る時、いちいちセルを移動して入力するのはダルい(今回、なんか文字数指定の問題をたくさん作っちゃったのでよりダルい)。だから次のコードをちゃちゃっと書いた。 新しいシートを作成して、そのシートモジュールに書く。 Option ExplicitOption

    • 「どうでもいい。」と書くのにも技術は要る。

      次の記事を読んだ。「どうでもいい。」 言いたいことはわかる。私も国語科教育学が必要なのかはよくわからない。なにせ国語科教育に関する本は、ほとんど読めないからだ。読んでも理解できないことが多い。私が理解できないからなくていい、とは思わない。しかし、そう思う気持ちはわからなくもない。 とはいえ、この文章はなんのデータも、根拠も示さない。ディスり方がお粗末なのではないか。 例えば次の部分。 「シリーズ」が「さまざまあ」るとはどういう状況を指しているのか。海外ドラマだと、シー

      • こんなことにはならない。

        天下の愚策だ。恐れ入る。 こうなると、現行の学習指導要領への改訂(改悪)も、そもそも学習指導要領じたいをなくすための準備だったのでは、なんて邪推してしまう。 ここでは次の部分だけに集中して、批判する。 断言できる。こんなことにはならない。 ならない。もちろんそうする生徒もいるかもしれない。しかし、おそらく多くの生徒たち(中堅校よりも学力が低い生徒たち)は、こんなことを考えず、なんとなく科目を選ぶ。 「なんでこの科目を選んだの?」と聞いてみよう。おそらく次のように答え

        • 組織で仕事をするうえで何よりも考えないといけないことは、「みんな自分がいちばん合理的だ」と思っているということだ。

          さすがに私は自分よりも年齢も経験も上の人は、こんなことは当たり前にわかっていると思っていたのだが、実はそうでもないようだ。 若い人の陥りがちな考えだとばかり思っていた。「自分の考えが、いちばん合理的で、いちばん正しい」と思うのは、悪い意味で若い考えだと思ってきた。 しかしここ5年くらいのあいだに、実はそんなことはないとわかった。むしろほとんどの人が、「自分がいちばん合理的だ」と思っている。 勝手に思っているぶんには問題ない。しかし、この考えは、端的に「ほかのやつらは自分

        • Excelで解答用紙を作った時に、文字数指定の模範解答を書くのがダルすぎるから書いたコード

        • 「どうでもいい。」と書くのにも技術は要る。

        • こんなことにはならない。

        • 組織で仕事をするうえで何よりも考えないといけないことは、「みんな自分がいちばん合理的だ」と思っているということだ。

          教科書に載る文章は、もともとよくわからないものもあるけど、ほとんどは編集時の改変によって意味不明になっているのではないか。

          と、思うことがよくある。 私は教材研究をするとき、まずは本文を読みながら、考えを書き出すことから始める。教科書の一文一文に対して、コメントを付けていく。 いぜん次の記事を書いた。 ここで素材研究と書いた部分である。 教科書会社の作ってくれている本文データを適当に加工して、表にする。2列の表である。左の列には本文のテキストを、ひとつのセルに1〜3文程度ずつ書く。右の列には、左の列のテキストを読んで考えたことを書き込む。 ほとんどの〈教科書教材文〉が、私にはよくわからな

          教科書に載る文章は、もともとよくわからないものもあるけど、ほとんどは編集時の改変によって意味不明になっているのではないか。

          Word VBAで、文字の間に半角スペースを入れる。

          やること漢文教材を作るときに、半角スペースを文字の間に入れたいという状況が生まれたのでメモ。 サンプル教材として『十八史略』の「管鮑之交」を使う。 参考にしたサイトは次のサイト。ほぼそのまま。 コードOption ExplicitOption Base 1Sub 文字の間に半角スペースを入れる() Dim para As Paragraph Dim charaCount As Long Dim i As Long '半角スペースの

          Word VBAで、文字の間に半角スペースを入れる。

          「自由進度学習」ぽい授業をはじめなければならなくなった。

          「自由進度学習」が流行っているらしい。しかし、流行っているからやらないといけないわけではない。やらなければならない事情が生まれたのだ。外圧ではなく、内部事情によるものである。 2学期の授業の準備はちびちびしていたが、すべて捨てて、再構築しなければならなくなった。しかし2学期までの時間は短い。数日で準備しなければならない。 いろいろと案は考えたが、「自由進度学習」が最善策であろうと結論した。どうにか私ができる範囲でやらねばならない。 こういう制約は、のぞむところではある。

          「自由進度学習」ぽい授業をはじめなければならなくなった。

          できることをこなしていく。

          家が落ち着かない。もう1年以上になる。そして先月末から、さらに落ち着かない状況になった。家族(私と妻と子どもたち)が仲がよいのが救いである。 息子の保育園の送り迎えをし、3食ご飯を作り、フルで勤務する。加えて、職場と家以外に、毎日行かなければならない場所もある。往復すると1時間半以上かかる。 例えば今日も、職場はほぼ定時に出た。しかし、いろいろ行かなければならないところに行き、買い物をして帰ったら19時を過ぎている。その後、夕食の準備をして、子どもの世話をし、寝かしつけ、

          できることをこなしていく。

          しまった。つい読んじゃった、みんなが読みそうな本を。

          昨日書いた。 しかし、こんなみんなが読みそうな本を読んで何かを書いたことを、今日はちょっと反省していた。 私が書かなくてもよかった気がする。えらい先生たちが、たぶんこれからたくさん書くだろう。 もっとみんな読まなそうな本、需要の少なそうな本を読まないといけない。少なくともタイムラインで自分が読んだ本が出てくると、がっかりする。なんて平凡なんだ、おれ、と。 そう思って、例えば次のような本については、読んだものの(そして良い本だったが)書く気にならない。ほめたいし、薦めた

          しまった。つい読んじゃった、みんなが読みそうな本を。

          『教科を越えた「書くこと」の指導』はたいへん良い本なのでみんな読んで勉強するといいと思う。

          届いたので読んだ。面白い。えらい。みんな読んだらいい。安いし。 副題にはいちゃもんをつけたい気分になる。副題は「事実を伝え、意見を述べる力を育む」である。反〈事実と意見の区別〉派の私としては気にいらない。しかし、序章を読むと次のようにある。 実際、ぱらぱらと読んだだけだが(そしてほぼ国語の実践報告以外を読んだわけだが)実践報告では、この副題は意識されない。いかに書かすか(または意図的に書かせないか)について書かれている。 相手や目的を意識して書く。これが最も重要である。

          『教科を越えた「書くこと」の指導』はたいへん良い本なのでみんな読んで勉強するといいと思う。

          なにかを説明するのが好きだとか得意だとかと言う人は、そんなに教えるのに向いていない。

          教える、という仕事を始めてから10年以上が経った。もともと教えるのが好きでも得意でもなかった。しかし仕事なので、いろいろ工夫して、だんだんとだが、「教えるというのはこういう感じか」という手応えを感じられるようになってきた。 でも説明がうまくなったとは思えない。そもそも上手く説明しようと思ってないところがある。授業でも、ほとんど説明はしない。 学期末にアンケートをとる。組織として取るべきアンケートもある。しかし、個人的にもとる。私の通知表だ伝え、できるだけ素直に、率直に答え

          なにかを説明するのが好きだとか得意だとかと言う人は、そんなに教えるのに向いていない。

          高校生の学習のつまずきは、かなりデリケートだし、単純に「学び直し」をすればなんとかなるもんじゃない。

          転勤して、いわゆる偏差値が中堅くらいの学校に勤務している。 このような学校にも、(すべての教科ではないにせよ)学習につまずいている生徒は一定数いる。 目下取り組んでいるのは、成績上位層を伸ばすために、発展的な課題を出して伸ばしつつも、つまずきを抱える生徒にいかに遅れを取り戻させるかという課題である。 これは難しい。 なにが難しいか。学習につまずきのある生徒も、入試を受け、合格して入学しているのである。ギリギリでの合格だったのだとしても、他の生徒と同じように合格している

          高校生の学習のつまずきは、かなりデリケートだし、単純に「学び直し」をすればなんとかなるもんじゃない。

          怒ることに意味がどのくらいあるのか。

          高校生に対して、怒鳴るは論外にせよ、怒ってどのくらい効果があるのか疑問を持っている。 〈「怒る」ではなく「叱る」〉論をしたいのではない。こんなのはどちらでも同じである。語の定義を、論者が好きに決めているだけだからである。 実際、例えば『大辞林』では、「叱る」の項でその語義が「怒る。」と書かれている。また『精選版 日本国語大辞典』では、「怒る」の項で「しかる。」と説明される。つまり語の一般的な意味としては、両者にたいした違いはないのである。 要するに、〈「怒る」ではなく「

          怒ることに意味がどのくらいあるのか。

          読み書きは一体のものとして指導すべきで、読むことだけ、書くことだけを指導はできない。

          という思いを年々強くしている。 授業進度が、気になる。考査までに終わらせなければならない教材がある。しかも長い。 こういうとき(というか、ほぼずっとだが)かつての私ならとにかく帳尻を合わせるために、私が主導して授業を組み立てて、発問を考え、学習活動を考え、なんとか考査範囲の教材を終わらせていた。 さいきん、というか今年度は、割り切ってしまった。なんなら教材についての解説をすること自体を放棄している節さえある。 その代わりに、とにかく読み書き(というか、書くこと)をさせ

          読み書きは一体のものとして指導すべきで、読むことだけ、書くことだけを指導はできない。

          「手で考える」感覚をどう実感させるか。

          授業で、よく書かせる。私のnoteを読んでもらえればそれはわかる。 とにかく小さなことでもノートに書かせる。できるだけ文の形で書かせるようにする。 このとき、手が動きださない生徒がいる。もちろん考えている生徒もいる。しかし、1分経っても2分経っても書き出さない。 こういう場面には慣れている。対策はある。しかしまずは、次のように言う。 「頭で考えるんじゃない。手で考えなさい。手を動かすのです。手を動かして、書きながら考えるのです。」 これは、文章を日常的に書く人ならよ

          「手で考える」感覚をどう実感させるか。

          作文指導は、自己中心性を減すための指導である。

          書くということをどう考えるかは、まあいろいろあるのだろう。 私自身は、書くことが好きかというと、好きではない。しかし苦手でもない(と自分では思う)。それは単に、量を書いてきたからである。楽しんで書く、という経験は別にない。 しかし、書くことは役に立っている。これは実感している。楽しくないが、たくさん書いてきた。それがいま、明らかに役に立っている。 もちろん、ビジネス文書を書くのに役立っている。また、生徒になにかを説明するための文章を書くのに役立っている。 しかし、なに

          作文指導は、自己中心性を減すための指導である。