しばしん

高校の国語の先生です。

しばしん

高校の国語の先生です。

最近の記事

作文指導は、自己中心性を減すための指導である。

書くということをどう考えるかは、まあいろいろあるのだろう。 私自身は、書くことが好きかというと、好きではない。しかし苦手でもない(と自分では思う)。それは単に、量を書いてきたからである。楽しんで書く、という経験は別にない。 しかし、書くことは役に立っている。これは実感している。楽しくないが、たくさん書いてきた。それがいま、明らかに役に立っている。 もちろん、ビジネス文書を書くのに役立っている。また、生徒になにかを説明するための文章を書くのに役立っている。 しかし、なに

    • 国語(科)教育関係の本が、ほとんど面白いと思えない。つらい。

      タイトルそのまま。 年々悪化している。 ここのところは読んでないけど、話題になっている本を読んでも、何がおもしろいのか、何がいいのか、何を参考にすればいいのかわからない。 とにかく教育観が違うのだと思う。 読んでいて疑問が絶えない。何を言っているのかわからない。言っていることに(感情的にではなく、理屈として)理解ができない。そんなことばかりだ。 これはほんとうにつらい。自分は向いていないと感じる。自分はダメなやつだと思う。 だからがんばって読んできた。今はやめた。

      • 読書会のために三島由紀夫『金閣寺』を読んだら、とにかく足ばっか気になった。

        教養がないので、文学をほとんど読んできてあない。古典はもちろん、近現代文学も読んでない。三島由紀夫なんて、読んでいるわけがない。 しかし、国語科の教員として、有名な文学作品を読んでないのはどうかという思いがある。だから、仲の良い友人たちと読書会をすることにした。読書会をすれば、強制的に読める。 今回の課題図書は、三島由紀夫『金閣寺』である。 面白いかどうかは別として、私はとにかく読んでいて〈足〉が気になる。主要な登場人物のひとりである柏木が足に障がいを持っているからとい

        • 頭を下げることを厭わない。

          あえて言うべきことではないかもしれないが、私は自分が絶対に正しいとは思っていない。間違いは必ずあると思っている。可謬主義者である。 だから、謝ることになんの抵抗もない。間違えるのは当たり前である。間違えたら謝る必要がある。間違えうるのだから、謝る機会があるのも、当たり前である。 生徒にもすぐ謝る。毎日のように謝る。些細なことでも謝る。生徒から抗議を受け、するとなぜか生徒はびっくりする。まさか謝られるとは思っていないらしい。自分に少しでも悪いところがあるなら、すぐに謝り、改

        作文指導は、自己中心性を減すための指導である。

          油断や驕りはいつもそばにいる。

          油断しないよう、驕らないよう気をつけている。筋を通し、連絡や報告、相談は密にする。 しかし、ふとしたときに油断や驕りが生まれる。無意識のうちに生まれる。どんなに気をつけていても、生まれる。 今日はそれを痛感した。反省し、次に生かす。ひとまず対応を丁寧かつ慎重にする。焦らずこなす。疲労。 各方面に誠実に対応しなければならない。嘘はつかず、誤魔化さず、自分に都合よく解釈せず、誠実に対応しよう。それしかない。

          油断や驕りはいつもそばにいる。

          友だちは少なくていい。少ないほうが、いい。

          私は友だちが少ない。高校のときからずっと、友だちが少ない。実際、高校のときからずっと付き合いのある友人はひとりもいない。高校のときから、誰とでもそれなりに仲良くしてきたが、深く付き合うことはほとんどなかったように思う。大学時代の友人もいない。大学院時代に仲良くなった人たちとは、付き合いがある。しかし頻繁に会うようなことはない。 いまもほとんどの同僚とも、そんなに仲良くない。 私は意図的にそうしてきたところがある。自分がちゃんと相手と向き合えるのは、数人だと思ってきた。だか

          友だちは少なくていい。少ないほうが、いい。

          「対策プリント」なるものがあるらしいが作ったことがない。

          定期テストの対策プリントなるものがあるらしい。どんなものなのかは知らない。テストに出る問題が一部まとめられているのだろうか。よくわからない。 「どこから勉強していいかわからない」というのは、範囲のことなのか。それとも何から手をつけていいかわからないというような意味なのか。よくわからん。 なんにせよ、「対策プリント」があるとそれがどう変わるのか。ただの対症療法ではないのか。 範囲などというものがテストにあるのかもわからない。いわゆる「テスト範囲」とは、主として、どのような

          「対策プリント」なるものがあるらしいが作ったことがない。

          引用は書けない人の味方だ。

          作文を指導するとき、というか、文章を書くということ一般を指導するとき、まずは引用を指導する。 なぜか。引用は、書けない生徒の強い味方だからだ。 文章を書こうとする。しかし、なにを書こうかと悩む。書くべきことがない。なにか刺激が欲しい。これについて書けばいいのだと考えられる対象がほしい。 授業を文章化していたことはすでに書いた。毎週数万字を書く。なぜそんなに書けるか。生徒の文章があるからである。生徒の文章についてのコメントを柱とする。問いに対する生徒の答えに解説を加える。

          引用は書けない人の味方だ。

          自分で書いた板書くらい自分で消せ。

          教員のなかには、板書して、それを生徒が消すのが当然だと考えている人が一定数いるらしい。意味不明だ。生徒が消してくれるのは、好意ではないか。義務ではない。 たしか森信三も、板書は自分で消せと何かに書いていたと思う。保守的な主張をした人でも、そう言うのだ。 というか、自分がやったことを自分で後片付けするなんて、幼児にも教えることである。そんなことも教えられてないのだろうかと思う。 学習環境を整える責任は、教員にある。私はそう考えている。 初任者のとき、なぜか生徒指導の研修

          自分で書いた板書くらい自分で消せ。

          自分のことを適切に言語化できることが、いまの所属校の生徒には必要だと感じる。

          「メタ認知」という言葉がよく使われる。しかし例に漏れず、私はこの言葉がよくわからなかった。 「メタ」という語の意味は知っていた。だから、「メタ認知」というのが、〈認知についての認知〉だとは理解できた。しかし、それがなんなのかよくわからなかった。 自分なりにいろいろと考えて、今は「メタ認知」とは〈自分のことをことばにすること〉だと考えている。自分のことを言葉にすることで、自分を観察できる。自分が何を考えているのか、どう思っているのかを言葉にすることで、自分の考えについて考え

          自分のことを適切に言語化できることが、いまの所属校の生徒には必要だと感じる。

          上に立つ人のいちばんやるべきことは、自分のもとで働いてくれている人たちを全力で守ることなんじゃないか。

          5年前、初めて主任になった。分掌主任である。若かったので、不安が大きかった。おそらく、周りの先生方も、私のような若造が主任をすることを不安に思っていただろう。校内人事が発表されたとき、私よりも年下の分掌の部員は、私以外に1人しかいなかった。他はみんな私より年上だ。 主任を任されると決まった時、とにかくこれだけはしようと思ったことがある。自分が戴くなら、このような人を戴きたいと思っていたのである。そのような人間になるよう努力しなければならないと思った。次の2点である。 何が

          上に立つ人のいちばんやるべきことは、自分のもとで働いてくれている人たちを全力で守ることなんじゃないか。

          前提を共有して代案を出せ。

          定期テストのシーズンが来る。テストを作成する期間に入ると、国語科の同僚から問題についての相談を受ける。 いまの所属校の同僚たちは、優秀な方たちばかりだ。だから、基本的には最終確認だけで足りる。しかし、その優秀な方たちが、不安に思う問題だから、相談していらっしゃるのだ。当然、私は真剣に考える。何が不安なのだろうか。どこが微妙だと思っているのだろうか。考えながら問題を読む。 すると、確かに〈問題〉がある問題になっている。例えば、何を答えるかが明確でなく、答えに意図しない幅が生

          前提を共有して代案を出せ。

          朝が弱くてつらい。

          教員は概ね朝が早い。 ビジネスパーソンも朝活などに励むため、朝4時起き(!?)とかしている人もいるらしい。 私も意識が高いころはあって、「やっぱ朝早く起きて、フレッシュな時間に、クリエイティブな仕事をする習慣をつけるぜ!」と思っていたときがあった。 しかし結論から言えば、ぜんぜん無理だった。 数日はちょっと早起きできる。しかし、朝起きても頭がぜんぜん回らない。結果なんの生産性もない。いやいや、始めたばかりだからだろう、慣れればバリバリ生産的なことができるだろう、と考え

          朝が弱くてつらい。

          〈疑問作文〉は全員の作文を見て添削する。

          すでに書いた〈疑問作文〉について付記する。 〈疑問作文〉では、(1)本文の該当箇所を引用し、(2)その部分についての疑問を文章で説明する、という学習活動を行う。 生徒に1時間程度で書かせ(書けなかった場合には宿題とする。)、提出させる。 提出後は、まず原稿を本文の引用部の順番に並べ替える。生徒には必ずページ数を書くように指示しているので、引用後の()に書かれたページ数の順に並べ替える。そのうえで、すべての原稿を読み、添削する。 添削する時の視点は次のとおりである。

          〈疑問作文〉は全員の作文を見て添削する。

          とことん疑って読むことが、結果的に好意的に読むことにつながる。

          「批判的に読みましょう」という指示はしない。意味ないからだ。どうすればいいのかがわからない。どう読んでいいのかわからない。 私は生徒に、どんな文章も批判的に読んでほしい。私の文章も、批判的に読んでほしい。 しかし直接「批判的に読みましょう」は言わない。そう言って読めるなら、もう批判的に読めているはずなのだから、わざわざ指示する必要もない。 岩下修氏の「AさせたいならBと言え」や、ランディ・パウシュの『最期の授業』における「頭のフェイント」のように、やってほしいことを直接

          とことん疑って読むことが、結果的に好意的に読むことにつながる。

          漢文の入門期指導は、短い白文を用いて語順を理解させるという正攻法以外にないのではないか。

          何度も書いていて嫌になるが、現在の所属校はいわゆる進路多様校である。みんな大好き「生徒実態」はしんどい。 中学校で、ここなら入学できるよ、と言われた生徒が多い。入試はあるが、ほとんどの生徒が合格する。 言語文化は必履修科目である。だから全生徒が履修する。言語文化には古典分野が含まれており、もちろん漢文を学習する。 漢文が役に立つ/立たない論争には関わりたくない。国語科の教員でも、「漢文が全員に必要じゃないと思う。漢文は全高校生がやらなくていいと思う」と言う方がいる。私は

          漢文の入門期指導は、短い白文を用いて語順を理解させるという正攻法以外にないのではないか。