引用は書けない人の味方だ。

作文を指導するとき、というか、文章を書くということ一般を指導するとき、まずは引用を指導する。

なぜか。引用は、書けない生徒の強い味方だからだ。

文章を書こうとする。しかし、なにを書こうかと悩む。書くべきことがない。なにか刺激が欲しい。これについて書けばいいのだと考えられる対象がほしい。

授業を文章化していたことはすでに書いた。毎週数万字を書く。なぜそんなに書けるか。生徒の文章があるからである。生徒の文章についてのコメントを柱とする。問いに対する生徒の答えに解説を加える。このように、ある文章についてコメントを書こうとすれば、書ける。

このような経験は、教員であれば、例えば日直日誌を想起するだろう。日直日誌には、生徒の文章が書かれる(ことが多いだろう)。教師はその文章にコメントする形で、文章を書く。だから書けるのである。何もない状態で、毎日何かしらのコメントを書き続けるのは無理である。早々にネタ切れする。書くことはなくなる。

文章を書くということは、当然だが、何かに〈ついて〉書くのである。書くという行為自体がメタ的な行為なのだ。だから、その〈ついて〉の対象が明確であれば書ける。書くことは見つかる。

だからこそ、引用が強い味方になる。

谷知子氏の良著『和歌文学の基礎知識』(角川選書)に次のようにある。

特に楽しかったのは、題材となる和歌を選ぶことです。秀歌選を作る楽しみを味わいました。和歌が決まれば、自ずと書くことは決まってきます。選んだ和歌に導かれて、夢中で書き上げたのです。

谷知子『和歌文学の基礎知識』

わかる。「和歌が決まれば、自ずと書くことは決まって」くるのだ。同じように、引用する部分が決まれば、「自ずと書くことは決まって」くる。引用箇所に導かれて、書き上げることができる。

このような視点(つまり、〈引用することによって、書ける〉のであるという視点)は、作文教育ではどのように扱われているのだろうか。浅学にしてよく知らない。

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