自分のことを適切に言語化できることが、いまの所属校の生徒には必要だと感じる。
「メタ認知」という言葉がよく使われる。しかし例に漏れず、私はこの言葉がよくわからなかった。
「メタ」という語の意味は知っていた。だから、「メタ認知」というのが、〈認知についての認知〉だとは理解できた。しかし、それがなんなのかよくわからなかった。
自分なりにいろいろと考えて、今は「メタ認知」とは〈自分のことをことばにすること〉だと考えている。自分のことを言葉にすることで、自分を観察できる。自分が何を考えているのか、どう思っているのかを言葉にすることで、自分の考えについて考えることができる。まさに「メタ認知」である。
これを〈自己言語化〉と言うこともある。「メタ認知能力」とは、〈自己言語化能力〉のことである。このように私は考えている。
多くの人はこの〈自己言語化〉が苦手である。少なくとも所属校の生徒には、〈自己言語化〉が苦手な生徒が多い。自分の置かれている状況や、自分の考えや思いを言語化することがものすごく苦手である。
私はこれが生徒たちの根本課題だと考えてきた。
例えば問題行動が起こる。触法行為がある。聞き取りをする。状況の確認、事実の確認をする。しかし、ほとんどの場合、生徒の答えは曖昧である。嘘をついているのではなく、単にうまく言葉にできていないのだと感じる。「なんかこんな感じ」「なんとなく」が多い。
こういうとき、生徒の答えを待っていると時間がものすごくかかる。だから、教員が手助けをする。しかしそれがいいことだとは思えない。私はひたすら待つことにしている。するのは質問ばかりである。こちらで補足することはせず、細かく質問を重ねる。自分で考え、自分の言葉で説明してほしい。
どんな指導場面でも、こんなことを延々とやるので、時間がかかる。でも、必要なことだと考えている。待つのだ。言葉になるのを待つしかない。
自分のことを言葉にできないということは、今自分が何をしていて、何をしようとしているのかを意識せず行動しているということだ。それは危ない。きちんと自分の行動やその背後の考えを説明できるようにさせたい。
ただ、これまで言葉にしないといけない経験を積んできていないと、言葉にするのは非常にしんどい。逃げたくなる。いままで、「これは嫌だ」とか「無理」とか言うだけで済ましてきたことの言語化を迫られると、きつい。しかし言葉にして、相手に伝えないといけない。その経験を、なんとか卒業までに積ませたい。
自分のことをちゃんと言葉で説明したり、主張したりできないと、損はしても得することはないだろう。
日々、そう考えて実践している。つらい。しんどい。もういいか、俺の人生じゃないし、と思う。しかしなんとか保っている。眠い。
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