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「正しい中国語」と「伝わる中国語」は違うことを知った話

今日は七夕ですね。

私は、七夕と聞くと思い出す話があります。
そして、それは私に大切なことを気づかせてくれました。

いつものように中国語の先生に、自分の書いた中国語の作文を添削してもらっていた時の事です。

その時の作文のテーマは、「伝統行事」について、日本と中国を比較して書いたものでした。その中で「七夕」のことを書いた一段がありました。

「日本では、七夕の日には笹に願い事を書いた短冊を飾り付ける」というのを、そのまま中国語に訳していました。

こんな感じです。
↓ ↓ ↓
「那天人们插上竹枝,并把写有心愿的纸条挂在竹枝上」

日本語そのまんま中国語に直した感じです。


これを読んだ先生は、「うーん、私は日本に居たから分かるけれど、この文だと、日本の七夕を知らない中国人にはイメージができないです」と言ったのです。


笹ってどれ位の大きさなの?
どこかに生えているものに、短冊を飾り付けるの??

っていう疑問が湧いてくるそうなのです。


で、どう直したかというと、こうなりました。
↓ ↓ ↓
「那天人们(在家里)插上竹枝作为祈愿树,并把写有心愿的纸条挂在竹枝上」

日本語にすると、こんな感じでしょうか。
↓ ↓ ↓
「その日、人々は(家に)笹を差して、お願い事をする樹とし、願い事を書いた短冊を飾り付ける」

「家に」が( )になっているのは、有っても無くてもいいけど、有ったらもっと分かりやすいかも・・・という意味です。

付け加えたのは、「お願い事をするための樹」の一言です。


「こうすれば、日本の七夕を知らない中国人も、イメージができると思います」と先生は私に教えてくれました。


「あぁ、伝えるってこういうことなんだ」と目からウロコが落ちました。


自分は分かっていても、相手が分かっているとは限らない。
だから、どうしたら相手に伝わるのか?

その視点が欠けていたのですね。


正しい発音、正しい文法はもちろん大事。
でも、だからといって、それだけで「伝わる」わけではないのだなと気づきました。


それ以来、私は「正しいかどうか」よりも「伝わるかどうか」を第一に考えるように肝に銘じています。




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