見出し画像

正欲

「自分が想像できる”多様性”だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」

本書

 本作の著者は朝井リョウさんで、令和3年3月に新潮社からでたものの文庫版。今年11月からは映画版も上演される。今年はいわゆるLGBT理解増進法が成立した年でもあるのでそういう話題についてはホットな年である。著者の名前は知っていはいたが作品は読んだことがなかったので手に取ってみた。
 あらすじは人には言えない性的指向を抱えた人が社会と葛藤していく物語である。大きなストーリーがあるというよりある事件に関与する人物たちの事件へのいきさつ、それまでの人生、事件へつながっていくいきさつ、そしてエピローグとなっている。ミステリーやサスペンスのように物語がどうなっていくのかスリリングで読んでいくというより登場人物たちの葛藤を味わっていくものだと思った。

(1)
 冒頭のセリフは裏表紙に書いてあるのでネタバレではないだろうし、そのセリフから推察されるに事件に関与する主な登場人物たちの性的指向はかなり特殊である。セリフのように「想像できる多様性」にはそのとおり入らないといえるだろう。登場人物たちは主に三つのグループに分けられると思う。

多数派:西山修、寺井啓喜
多数派の中の少数派:神戸八重子
想像できない多様性:諸橋大也、佐々木佳道

※多数派は性的指向が異性。(本書では性自認は扱っていなかったので触れない。また、登場人物の説明は割愛)

 真ん中の多数派の中の少数派とはいわゆる男女経験がない人である。ある種彼女が多数派と少数派の中間的な存在として両者の橋渡し的なポジションにいる。
 ただ「想像できない多様性」があるのであれば逆に「想像できる多様性」もはるはずだが、本書には該当する人物がいない。分類を【多数派-少数派】に単純化して上の図を分類に合わせると上から3つめが空欄になる。

①多数派:西山修、寺井啓喜
②多数派の中の少数派:神戸八重子
③少数派の中の多数派(想像できる多様性):?
④少数派の中の少数派(想像できない多様性):諸橋大也、佐々木佳道

 冒頭のセリフのように④のグループは①のグループの欺瞞を指摘している。その指摘に対する反論(中間)として②のグループが存在する。しかし冒頭のセリフは③のグループにも向けられうるものである。そして③のグループが”多様性”の議論の中で非常に重要なアクターであることを考えると、この話に登場しないのは少し不自然であるように思った。筆者はあえて③を抜いた構造にしたのか、③の存在を忘れていたのか、③は説明責任を逃れている。

(2)
 本書は”つながり”もテーマとしていると解説では述べられている。解説では「終わらない正交渉でしか、人と人はつながり続けることができない。朝井リョウも、フロイトも、人間とは、そして愛とはそういうものだと言っているのだ。」としている。
 ただそうだとすると1つひっかかることがある。八重子の兄は、職場で童貞であることをからかわれたことがきっかけに引きこもりになったので②的な存在といえる。本書のクライマックスとして②の存在を媒介に多数派と少数派のグループが近づく(=正交渉?)シーンがある。八重子の兄については八重子の人物設定の一部なのでその後物語に出てこないが、「つながり」という関係の輪の中からすっかり取り残されている。そして八重子は兄を非常に嫌ってる。理由は高校生の時に勝手に兄の部屋の入って兄が女子高生もののセクシービデオを見ていることを知ってしまったからである。八重子の兄は②に該当するが②の八重子からも、そして引きこもりなので論理的に①からも嫌われる存在であろう。
 そうするとここに「想像できるーできない」の軸とは全く違う存在としての少数派がいることがわかる。想像できないわけではなく見落としている、または認識することを拒否している存在である。現実の社会でも「弱者男性」というスラングがあるように、引きこもりの男性は弱者だが男性であるがゆえに②に該当しつつも①とも③、④とも孤立した存在(正交渉がない)であるといえる。
 つまり真に想像できない多様性とは特殊すぎて想像できないのではなく、何かしらの理由で認識することを拒否している(その存在が誰かにとって都合の悪い?)ものであり、真に「多様性」の言葉が使われる文脈の持つ欺瞞とはこのことなのである。

 おそらく著者が(1)や(2)の意図をもって物語を描いたとは思えない。著者は正確なフィクションを描くことで現実を非常に鋭く描写することに成功したのだと思うし、このような読み方が可能なほど、この作品は一定の地域的歴史的な制約を超えうる可能性を秘めているだと思った。
 

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?