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短編小説 椅子(3)

あれから一ヶ月が経った。
ボブがこなす毎朝の習慣に異変は見られなかった。
強いて言うならば、体重計に乗る際につきものであった憂鬱な気分が、自分の成果物を勘定するような、うきうきとした気分に変わっていた。
朝目覚めてから眠るまで、ボブの座る時間はかなり短くなっていた。
相変わらず椅子は帰ってこない。

ベッドに腰掛けることもできなくはないが、座っていたいがために寝室で一日を過ごしてしまったある土曜日をひどく悔いた彼は、
用もないのに寝室に立ち入らないことを自分に課していた。
不安定なワイン箱に腰を据えながらトーストをコーヒーで流し込み、朝の燃料補給をおこなっていると、
ピエールが手紙の束を持ってやってきた。
その勢いでワイン箱からずり落ちないように気を配りながら、ボブは振り向いた。

「最近は毎日のようにお手紙を送る人が増えましたね。」
「その代わり一通の分量がかなり短くなっているな。理由は簡単だ、机にじっとしていられないからな。」
「近頃は便箋も安くて小さいものが出てきましたね。1、2行しか書けないようなものもあります。」
「その代わり、どうでもいいようなことを書いてよこす輩も増えた気がするな。私へのやっかみや根拠のない批判、
 寄付の依頼に見せかけた政治への文句まで私に書いてよこすやつがいる。」
「そのようなものも含めて全てに目を通すのは骨が折れますね。残念ですが、お望みの手紙は今日も入っていませんよ。」
ボブはさも当然のように頷き、手紙を受け取った。

望みの手紙とは、椅子職人のルドルフからの返信であった。
散髪から帰ったあの日、ボブはすぐに盗まれた椅子と同じものの発注書を送らせた。
しかし、今日になっても返事はなかった。
「旦那様、別の椅子職人にも声をかけてみてはいかがでしょうか。」
ピエールの提案に、ボブは首を横に振った。
「私も一週間経ったあたりでそんなことを考えていた。しかしどの職人も連絡が取れないらしい。
昔から知り合いの家具商がいるんだが、彼によると、椅子を求めて椅子職人の家に押しかけたところ、家具や食料やらはそのままに、姿を消していたそうだ。
もちろん、椅子はなくなっていたらしい。」
「近辺での調達は難しいということですね。最近ではこのあたりが『椅子のない街』として新聞に取り上げられたようです。
 数奇者が観光にやってきて、街の方は潤っているみたいですが、反対に椅子の寄付やを申し出る人は望めないでしょうね。」
「中には、このままの方がいいんじゃないか、なんて言い出す者もいるからな。」

椅子が欲しいと口では言いながら、ボブもピエールもこの生活に慣れ始めていた。
山では切り株に座れば良いし、街に出れば、以前よりも清掃の行き届いた地面に座れば良い。
背もたれの有無さえ気にしなければ座ること自体を禁じられているわけでもない。
おまけにボブの商売である食料品の仲介も、人出の増加による恩恵にあずかっていた。
椅子を取り払い、客の出入りが素早くなった飲食店から、注文が止まらない。
「少しくらい質が悪くても、安い材料を売ってくれ。みんな急いで食べていくから、味にうるさくなくて助かるよ。」
ボブはそんな電話を日に何度も受けていた。

ボブがトーストをコーヒーに浸して口に押し込んでいると、ピエールが新聞を持って駆け込んできた。
「おやピエール、今朝の手紙は一通もないのか?」
「手紙は玄関へ置いてきてしまいました。この記事を一刻も早く読んでいただきたかったのです。」
ピエールは無作法にすら見える勢いで新聞を突き出した。

-椅子のない街近郊で不法投棄か-
セディア県シュライブ市の山中に、大量の椅子が廃棄されていることが分かった。
目撃者への取材によると、椅子には破損などはほぼ見られず、中にはクッションが結びつけられたまま廃棄されたものもあると言う。
「まだ使えそうなのに、もったいないことをする。」と目撃者は首を傾げる。
山を挟んで隣接しているスツールドーフ市は「椅子のない街」として近ごろ話題を集めており、町おこし目的の集団不法投棄の可能性が浮かび上がった。
現在、警察当局は不法投棄と見て目撃情報を募っている。
情報のご提供は下記の電話番号まで。
○○ー○○○……

「これは私の椅子じゃないか?」
ボブは新聞に掲載された山のような椅子の写真を指差し、ピエールに尋ねた。
白黒写真のため断定はできないが、背もたれのやクッションの形はボブが長年使っていた、見紛うはずのないそれと同じであった。
ピエールも目を丸くして頷いた。
その山へ行ってみよう、と言う結論にいたるまで時間はかからなかった。
呼びつけたタクシーに飛び込むと、二人はシュライブ市へ向かった。

下から見上げてもその分厚さを感じるほどの濃い雲が、どこまでも続いていた。
太陽に照らされることのない遠景は、先ほど見た新聞のモノクロ写真の延長のようだった。

ボブは白黒写真で確かめられなかった椅子の色を確かめに行くのだが、
椅子の実物を目にしても、やはり白黒なのではないかとすら考えていた。
ピエールもボブの考えと同調するようにあえて言葉を発さずにいた。
久々に味わう背もたれの心地よさを感じながらも、背中にへばりつくシャツの不快感は増すばかりだった。

続く

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