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短編小説 椅子(1)

なんの変哲もない朝だった。
ボブは目覚めて、パジャマを脱ぎ、毎朝の習慣をこなしていた。
すなわち、体重計に乗って昨晩ピザを一切れ余分に食べたことを反省し、髭を剃り、四十一度のシャワーを浴び、髪を撫でつけたあと乾かし、トースターにパンを二枚置き、コーヒーを入れていたのだった。
そこまできてようやく、彼はあることに気がついた。

椅子がない。食卓に据え付けてある、普段男が使っている赤いクッションに生木を剥いだような薄いベージュの椅子が見当たらない。
寝ぼけているのだと思い、窓辺に寄せて置いてある、来客用の椅子を目で探した。
しかしそれも見当たらない。使用人が片付けたのかと思い、呼びつけてみた。
「ピエール!」
「おはようございます、旦那様。トーストをお持ちいたしました」
使用人のピエールは危うく焦げそうになったトーストをすんでのところで救い出し、やや得意げに皿に盛り付けて運んできた。
ボブはピエールの呑気さに苛立ちながら訪ねた。
「私の椅子がどこにもないのだが、知らないか」
「いえ、私はどこへも持って行っておりません」
「お前の他に誰が運んでいくと言うんだ。泥棒でもあるまいし」
「泥棒だなんてそんな……」

想定外のことが起こった時、ボブはまず、驚いた素振りを胸のうちに仕舞い込もうと努める。
しかし事態が改善しないことに気づくと、徐々に顔のシワが深くなり、やがて声の調子が低くなる。
そんな中でも声量は落とさず、周りのものに自分がどういう感情かを示すことに力を注ぐ。
このようにして機嫌が悪くなったことを最小限の方法で表現するというのが、彼のならわしであった。

しかし今回は違っていた。事態の改善はしていないが、どうも腑に落ちない点が多いためだった。
普段なら自分が相手に与える印象ばかりに気を配るタイミングで、相手の様子に目を向ける落ち着きを今の彼は持ち合わせていた。
そのため、「泥棒」という言葉を発した途端、飄々としたピエールの歯切れが悪くなったことに気がついた。
「お前は何かを隠しているな?包み隠さず私に教えてくれ」
ボブは声の調子を変えず、極めて平静に尋ねた。

一方ピエールもまた、普段とは異なる動きを見せた。
普段であれば主人に隠し事をする際は、相手の心中を注意深く推察し、相手の怒りの波が静まったあたりで出し抜けに打ち明ける。
これがピエールの特技であった。これによって彼は必要以上に主人の機嫌を損ねないように心がけていた。
ボブが普段とは異なる冷静さを示していることに気づいた彼は、今なら正直に話しても良いと感じ取った。
そして同時に、心の底から安堵した。
今回の隠し事は、いつものトーストの焦がしてしまった面を伏せて皿に盛ったり、
愛犬の足を綺麗にするのにボブのお気に入りのタオルを使ってしまったりしたこととは趣が異なっていた。
できることなら彼も、早いところ正直に打ち明けてしまいたかったのである。

「実は、今朝になって家の掃除をしておりましたところ、裏庭に面した窓ガラスが破られていることに気がつきました。
 間違いなく泥棒だと思い、旦那様が起きてくる前に家の貴重品をくまなく調べましたところ、何ひとつ盗まれておりませんでした。
 しかし、まさか椅子が盗まれていようとは、夢にも思いませんでした……」
「窓が破られていただと!何故もっと早く言わないんだ。」
「夜中に窓ガラスが破られ、その後に足音や椅子を運び出す音があったはずなのに、ぐっすりと眠っていた自分が情けなくて……
 旦那様に見つかたら私は解雇されてしまうだろうと思うと恐ろしくて、言い出すことができませんでした。
 しかしこんなことを考える時点で使用人失格です。どうぞ私を解雇してください。」

しょげかえるピエールを見て、ボブは叱りつけることもできなかった。
「まあ落ち着け。貴重品は盗まれていないし、私に危害があったわけでもない。大事なのは椅子の行方だ。」

立ちながらする食事は気ぜわしいものであった。
誰にも急かされていないにもかかわらず、急いでトーストを胃に収めた。
そして食後のコーヒーも今となっては彼を食卓に縛りつける枷でしかなく、彼は口の中を火傷しない程度に急いで飲み下した。
真っ直ぐに立った彼の食道と胃はもはや一本のパイプのようであった。
そこへ朝食を放り込んでいくことは、汽車を動かすために機関助士が燃え盛る炎の中に石炭を投げ入れることとそれほど違いはなかった。
もはやある種の作業であった。

三度の食事を一日の大事な楽しみとして位置付けていたボブにとっては、やりきれない思いだった。
「今日のトーストはバターの量が文句なしだったな。」
「今日のコーヒーは昨日よりも深みがあった気がするな。次回はこうしてみよう。」
翌日の食事に思いを巡らせながら顔をほころばせる彼が、今回は一仕事を終えたような顔をしている。
ボブは顔のいたるところにある筋肉に力が入るのを感じた。そして同時に皮膚がそれにつられ、ひとりでにシワが深まる感覚があった。
「これはいかん。今日は朝から役所に行く用事があったが、予定変更だ。」
機嫌が態度に出てしまうのが彼の欠点であったが、一方で彼は自分で機嫌を取り戻す試みを常に忘れなかった。
それゆえに彼はピエールをはじめ、職場や友人など、周囲の人間と友好的な関係を保ち続けているばかりでなく、
むしろ周囲から彼を慕ってくるのだった。

ピエールに朝食の片付けを命じると、消えた椅子よりは少し濃いベージュのコートを着込み、家を出た。
彼は自身の機嫌の特効薬を知っていた。月に一度しか使えないが、効果は請け合いであった。

続く


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