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自分の代わり

カズレーザーさんのインタビュー動画を見た。ものすごく共感した。それはつまり「自分にそのような経験があるから」だ。

僕は5年半ほど前に、病気である日突然職場からいなくなった。それまでは「責任」という言葉が全てで、任された部署の仕事も「自分でなければ」「自分がいなければ」という意識がとても強かったように思う。実際、過去の上司からもそのように教え込まれ、半ば洗脳のように責任感を背負い込んでいた。しかし、僕が職場からいなくなっても業務は何事もなかったかのように進んだ。何事もなかったかのように売上も利益も確保し、最初から僕なんていなかったかのように。

「スティーブ・ジョブズがいなくても、Appleは利益を伸ばし続けている。ジョブズがいなくても大丈夫なんだから」

そう語ったカズレーザーさんの言葉は僕の心に突き刺さった。これは解釈によってものすごく誤解を生む言い方だと思うんだけど、彼が言っているのは「必要以上に責任を背負い込んでも、自分がここに必要な人間なんだという強迫観念に縛られてもいいことはないよ」という意味だと理解している。

僕はこれまでの社会人人生で、特に20代は馬車馬のように働かされてきた。記憶が消えるくらい働いた。仕事終わりに友達と飲みにいく予定も立てられない時期が何年も続いた。ブラックもブラック。上司からは「どうすんだ!」「どうすんだお前!」「何がしたいんだ!」という言葉の連続と休日までかかってくるプレッシャーの電話にビクビクしていた。そうやってマシンのように責任感を背負い込んできた中で病気になったことは、自分の内面を外に出してあげることのできるきっかけになったと感じている。

会社に所属していると、そこの場所で与えられている仕事や役割に徹する必要がある。その会社が大切にしている文化によって、責任の価値というのはいかようにも変わる。結局のところ、その上司が決めた「お前の仕事はこれ」というその場の雰囲気によって決められることがほとんどだ(公務員や、売上高が「兆」の企業は研修がしっかりしてたり、優秀な人が多いイメージなので違うかもしれないが)

これは僕の勝手な持論だが、自分の代わりがいないと声を大にして叫んでいる人は、他人を信用していない。何かに迷った時、最終的に信じるのは自分で良いだろう。しかし「いつ自分が消えていなくなるか」という想像ができていない。何かを手伝ってほしくても「いやこれやんなきゃいけないんで」とか言っている。それ、他の人でもよくないですか?どんなに自分がいなければと己を追い込んだところで、代わりはいる。代わりがいないということはありえない。

なぜこういう姿勢になるかといったら「評価されたいから」というのが一番だろうなと僕は思っている。自分がここに必要な人間だと思われたい。敬われたい。先述したように、長いこと同じ会社でそういう教えを受けてきたから、というのもあるだろう。だがこれには一種の暗示のような異質さや違和感を感じる。この価値観から抜け出すことは難しい。多分ずっとこのままだと思う。

好きなことをした方がいい。好きではない仕事をしているのなら、辞める方がいいだろう。ただ経済的な部分があるだろうから、仕事は続ける。そうなったら、自分の責任の範囲をしっかり上司と相談し、自分の仕事はちゃんとやる。プラス組織のための仕事を5%でいいから一日の中に盛り込む。(どの仕事にも存在してるだろう不特定多数の人が使う場所の仕事)

組織のための仕事というのは誰かが見ている。自分のところだけでいいや、という姿勢はどうしたって軋轢を生む。先述の自分の代わりがいないと声を大にして叫んでいる人は、こういった意識は低い。自分のことで精一杯で視野も狭い。「やらされてる」から文句も多いし怒りっぽい。組織の中である程度生きていこうと思うのなら、こういった仕事はやった方がいい。

自分ができること、向いていること、好きなことだけをして生きていく方が良い人生となるに決まっている。ただそういった人生を送れる人は恵まれている。それに気づくのって大人になってからなんだけど、なんでかっていうと、ほとんどの人がそれが素晴らしいことだという教育を受けてこないから。子供の頃から「好きなことを探すことが重要」だという教育がされてこない。好きだと思ったことを追求していれば、世の中が明るく見えてくる。でもそれだけではなく生きていくには知識も必要。だから「勉強しなさい」などの言葉が意味を持ってくると思っている。

世界は広い。自分に合った場所はきっとどこかに存在している。それを見つけるためにもし悩んでいるのなら、誰かに代わりを託して歩き出すのも悪くない。

人生は一回なのだから(自分に言い聞かせました)

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