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アナログとデジタルの共存

毎週J-WAVEで、山口周さんと長濱ねるさんのラジオを聴いています。

以前は長濱ねるさんって「日本のオトコが好きそうな要素が全部詰まった空想上の人物」くらいにしか思っていなかったんです。でも知人がすごくねるさんのことを推していたので、影響されて朝のラジオ番組を聴き始めた。でもなんとなく声のトーンとか雰囲気がその番組に合ってない気がしていた。案の定、短い期間でねるさんは午後のビジネスパーソンがコーヒーでも飲みながら聴いているような時間の番組へと移ったのです。

でも、です。せっかくだからと聴いてみたその番組でねるさんのうちに秘めた「静かな力強さ」みたいなものが僕の心にめちゃくちゃ刺さった(共感)んですね。よく番組の中で「ねるそんはどう思いますか?」という質問を山口さんがしてくれるんですけど、その中で出てくる人間関係や経済や思想や価値観、現実社会における物事の考え方とかまで含め、男っぽいというか竹を割ったような考え方をしてたりするんです。

決して体育会系の選択という感じではないんです。でも私はこう考えているという芯がちゃんとある。その芯に沿って自分の意見を述べることもあるし「きっとこうだとしたら」という仮定を含めた意見もかなりロジカルに話しているんですね。

僕は感情で「すき、きらい」みたいな動物的なコミュニケーションをとる人があまり得意ではありません。わかりやすいとは思いますが、人間の価値観や意見って、立場が違うだけで180度違っているものじゃないですか。「こっちとあっち」ではなく、その中間にある意見だってたくさん世の中には存在している。むしろ日本の国民性ってそういった白か黒かではなく色で例えると「もんのすごいグレー」だと思うんです。その、もんのすごいグレーゾーン上にある考え方を上手に言葉にできる人が好きです。

ねるさんはその言語化能力が、ものすごく高い。もしかしたら僕自身と考え方が近い!と思っているだけのバイアスかもしれません。うーんと悩んでいる時間もあるのですが、紡ぎ出す言葉は確実にねるさんの意見だなと思えるものであり「わからない」と思えるものでも、逃げずに話をされている。

今の世の中は「〜症候群」「〜予備軍」「〜症」「〜世代」となんでも分類や定義を設定し「あなたはこうです」と決めがちです。もちろんそうやって定義されることで救われることや安心する人もたくさんいると思います。「私は◯◯症候群なんで!」とその場から逃げるための口実にもよく使われます。

やっと本題に入ります。このラジオ番組でアナログについて取り上げていて、共感できることが多かったので、ここで書きたくなりました。

デジタル技術がどんどん進むことによって、写真とか音楽とか、これまで手間をかけてやってきたことの文化が淘汰されかけているというのをすごく僕も感じています。昔はカメラってフィルム式で、現像、焼き増しをするのが普通だったし、音楽もレコードやCDで聴きたい作品ごとに「プレーヤー」を操作する必要がありました。写真屋さんがあって、CDショップがある。そこに行く手間と時間をかけないと手に入らないものばかりでした。でも今はスマホがあれば写真も撮れて、転送も一瞬で、音楽もサブスクでなんでも聴ける。家から一歩も出る必要もありません。

でもレコードも消えてないし、フィルムカメラも消えてない。むしろ人気が再燃し、アメリカではレコードの売り上げがCDを逆転したというよくわからない現象も起きているようです。

便利になりすぎると、物足りなくなるんでしょうか?

ねるさんは車に乗るなら旧車が良いと言っていた。マニュアルでエアコンもなくて重ステという車を見に行ったとも。さすがにやりすぎじゃない?と思いましたが、キーをひねるという行為自体も、あと数年したら死語になっているのでしょう。

でもアナログって良いですよね。今を生きる人たちにとって良かったなと思うことは「デジタルとアナログを選べる」ということにあります。フィルムのカメラを楽しみたいけど、普段はスマホでということもできる。逆に極端に若い人だと「デジタルしか知らないからアナログに興味が湧く」という部分もあるのかもしれません。

デジタルって目の前に「どーん!」って実態があるわけではないですよね。そのありがたみや情報量というのを勘違いしがちです。アナログで1000ページある本が目の前にあったら、ものすごい分厚さになりますが、デジタルならファイルの一つになっているだけです。これだけの厚みの本を読んだという達成感は得ることができません。今の若い人たちは、YouTubeもNetflixも倍速で視聴するそうです。

僕も最近アナログなものにすごく興味があります。正直、今の若い人たちと違って、僕の小さい頃はアナログでしたけどね。新しいものに触れるみたいに話をしていますが、ちょっと違います。自分の成長とともにデジタル社会になっていくという、そのときは「この時代に生きていること、最新の技術に触れること」がとても楽しかった。うわあ!ついにカセットもCDもMDも持ち歩かなくてもたくさんの曲が聴ける時代が来た!とわくわくしたものです。

しかし、いつでも手にできるもの。つまりデジタルって、効率よく吸収できすぎて記憶に残らないんです。あれ、これいつ見たっけ?経験したっけ?どんな内容だったっけ?最近の記憶なのに意外と覚えてないんです。だけど、昔読んだ作品だったり観た番組のことは、とてもよく覚えてたりする。その作品というのは学校の図書館で順番待ちをして読んだとか、日曜夜のバラエティ番組のために、お風呂に入って次の日の準備もしておくとか、他の要素を一緒に思い出すことがとても多いんですね。そうやって習慣としてやってくるもののため、目的のものを手にいれるために行う複合的な作業が、記憶を確かなものにしている。だから年配の人って昔のことほど覚えているんじゃないかって思ったりするんです。

100年前より50年前の方が便利な世の中になっています。50年前より20年前。20年前より今の方が便利になり、デジタルな世の中になっている。きっと今の若い人も50年後はそうなっている。単純に「脳の機能の問題」とは言い切れない何かがそこには存在している。

ファミコンが起動しなくなって、カセットの基板に息を吹きかけたら直るとか、今の子供達は知らないじゃないですか。でもその面倒くさい経験が何十年経っても同世代の共通の話題として心に残っている。

そうです。アナログって面倒くさいんです。だから効率よくいろんなものを処理するためにデジタルが発達した。レコードプレーヤーと電話とパソコンとカメラ?音楽聴きながらネットしたいし、メモとしてカメラも一緒の電話機作ったら便利なんじゃね?そうやって新しく時代を彩る商品やサービスが誕生してきました。

しかしデジタルだけに囲まれて生きるのは、人間にとって時間の進みが早すぎるんだろうなと感じることがたくさんあります。余裕や余韻、遊びというものがないんです。今の社会にも通じることですね。どこにでも「◯◯警察」の目があって、常に誰かの目を気にしながら生きている。それに疲れた人たちが余韻や遊びだらけのアナログというものの良さに気づき、ブームになる。不思議な感じですが、自分たちが寝る間も惜しんで「便利になろう!」と作り上げた時代に、自分で疲れてしまっているような気がするんです。

もちろん日本だけで考えれば「休むのが下手くそ」だったり「必要以上に他人の目を気にする。また気にするよう徹底的に叩き込まれる」という国民性もあることと思います。

好きに生きれば良いという概念は、言葉だけ一人歩きしていて実際は「横並び」に生きることを強く求められる。「あの人はこうなのに」「あの人がこうだから」という思考で生きる道を選び、でも自分の中にくすぶる目指す生き方のために、新しく海外からやってくる新時代の概念に無駄に希望を持ってみたりする。そういう人ほどデジタルにまみれる。

あ、それ、自分や!

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