賢治の冒険(高木学校)

新しいマガジン「徒然なるままに」を開設しました.皆様の気分転換になると良いと思います.どういう順で宮沢賢治や高木仁三郎の話を掲載しようか考えましたが,第1回はこのエッセイから始めることにしました.
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私は、3年前*注)の夏(1999年7月3日)、東京は新宿のカタログハウスで開催された、高木学校の宮澤賢治に参加しました。高木学校を主宰した高木仁三郎さんは、残念ながら、2000年10月9日に亡くなられましたが、その志は、今も多くのブドリ達に受け継がれています。私は、髙木さんの著書「宮澤賢治をめぐる冒険」(社会思想社)を、書評欄(北海道新聞:1995年5月28日)に紹介したことがあります。しかし、この高木学校でご挨拶したのが最初で最後になってしまいました。高木さんは、ガン療養中でしたが、当日は長時間にわたり、明るく元気に講演されました。
高木さんは、核化学者として研究生活に携わった後に、反原発市民運動を手がけます。科学技術の専門家は、人類にとって恐ろしいことでも冷徹に進行させることがあります。髙木さんは、冷たいプロの科学者ではなく、人間の視点に立った科学者として行動しました。農民にとって必要な科学・芸術の構築を目指し、羅須地人協会を、その実践の場とした宮澤賢治の志と同一です。自分の人生を賢治の羅須地人協会(農民芸術概論)へ投影し、賢治の心を解明して見せました。科学を人間的な場に引き戻そうとした“賢治の冒険”です。私も、人間の心を忘れない科学者であり続けようと思います。
注)高木さんは、1995年には、イーハトーブ賞、1997年には、スウェーデンの財団が平和・人権・環境問題などの解決に尽くしている人に贈る「もう一つのノーベル賞」と呼ばれる「ライト・ライブリフッド賞」を、プルトニウム政策の危険性を警告したことが評価され受賞しています。

注)これは2002 賢治記念館通信8月号への寄稿

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