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カーテンをあける、青い光

5.6年ぶりくらいに体調をくずした。ちゃんと弱ってるなあと思う。ずっと眠れてなかった。日が伸びて部屋が明るくなるからだと思っていたけど、もっと深刻だったかもしれない。絶えず緊張してずっと休んでいなかった。休み方がわからなくなってる。

悲しかったこと、まだ少しだけ思い出すと別のことも一緒によみがえってきて急いでふたをする。やっぱり重なる。どこも似ていないのにいつも重なって見えていたことが不思議だった。今となってはわかる。ほとんど同じだった。本当は少しわかってたけどどうすることもできなかったな。たくさんの叶わなかった小さな約束がぱらぱらと舞う。わたしの心がすり減った数。もうがんばらなくてもいいか。

読んでた本の文があまりにもまぶしかった。太陽みたいなギラギラじゃなくて、イルミネーションみたいなキラキラでもなくて、木漏れ日がゆれてるような、たまにコピー機の光を見てる強さもある、そういうの。まぶしいけど、見過ごすこともできるような、でも気づくこともできるような、そうゆうまぶしさ。
光が中にあるんだとおもった。内包されているから簡単には揺らがない。ビールが好きで、紫陽花がすきで、無言でパフェを見て頷いてる時間がある。いいなあと思った。季節や時間の経過を楽しんで、よろこんで、できるだけ記憶を残しておきたいという意志を感じる。うらやましかった。

いろんなことに敏感になって、怒って、腹を立てて、それでいいと思ってた。ちゃんと怒っていたいと思ってた。怒っていることが外側との接点を持てているような感覚だったから。
でも思ったより自分の中でそのエネルギーが使えていない。何にも消化されていない。許せないことばかりが多いのは疲れる。いつまでも覚えてないで、忘れちゃってもいいのかな。忘れちゃっても経験したことなくならないよ。傷ついたことをきちんと受け止めて消化したわたしはえらかったし、ひとつもかわいそうじゃないよ。

ずっと悲しみや孤独ばかりを守ってきた。その中にさす光が希望になる。まっすぐな「たのしい」とか「しあわせ」とか、抱えていられなかった。楽しいことを人に伝えるのは押し付けているような気持ちになったし、意味もないと思った。それでも伝える人はしあわせでいいなと妬み混じりに距離をとってきた。
でも今になって、もっとあっけからかんとしてみてもいいのかな。今すぐ写真とか文章には反映できないけど、心の持ちかたとして。春に寂しくなったら、夏を喜べばいい。シンプルに、おだやかにいる選択もある。別に楽しんでもいいじゃん。そういう気持ちが、今まで面倒だと思ってやらなかったことをやるきっかけになる気もするし、もうすでに持ってる自分の好きな時間をもっと気持ちよく大切にできそうだと思った。

楽しさとかまぶしさとかも、今までの自分の中にあるものと同じように残せていけたらいいのかな。そっとそこにある。もしかしたらもう思い出せないし戻れない場所に置いてきてしまうかもしれないけど。心ゆるめないと。義務でもないんだけど、そういう心持ち。

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