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「ことば」はアートか?

最近、「アート思考」というワードをよく聞くようになった。ロジカル・シンキングやクリティカル・シンキングのように、アート・シンキングなるものがあるということだろうか。

詳しくはまだ知らないけど、ロジカルやクリティカルがシンキングと結びつくことにはなんの違和感もないのにどうもアートとシンキングの結びつきはしっくりこない。

まあそれはこれから勉強していきながら考えるとして、そんなことをきっかけに最近アートというのがいったい何を指す言葉なのかモヤモヤしている。

美術や音楽といったわかりやすく芸術的な分野はもちろんアートなんだろうし、チームラボが手がける作品たち、新国立競技場のようなコンセプトのある建築、GINZA SIXのあの内観のようなものもアートなんだろう。

でも個人的には、やっぱり人間が紡ぎ出す「ことば」こそがもっともアート性の高い創造物だという思いが拭えない。

こんなにクリエイティブなものがあるだろうかと思うのである。

外国語を勉強しているときには言語がクリエイティブだなんていう感覚はほとんどないのだが、こうして母語を操っているときには「ことば」ってものすごいクリエイティブだなって実感するし、母語で本を読んでいるときなんてその芸術性に圧倒されることばかり…。

ことばを磨くことで、人の感性ってどんどん豊かになっていくんじゃないかな?というのが最近気になっていること。

もちろんそれは受信・発信どちらも含めてのことで、自分のことばを磨いていくほど受信できる幅が広がっていく。文学作品から専門書まで、様々なスタイルのことばをしっかり受信できるようになったら、それってすごいことじゃないだろうか。それが複数言語でできたりしたら、それはもう本当にすごい。こんなお得な状態はなかなかない。

ことばを理解できるというのは、たぶん「ことば」と「感情」が結びつくということに近い気がしている。だから、ことばを磨き、より幅広くたくさんのことばを受容できるようになると、自らの感情を揺さぶる機会が広がるということになり、それは自らの感性や価値観を磨く機会を多く持てることにつながっている

これ、やっぱりアートですよね?

あらゆるアートのなかで、いちばん心にダイレクトに突き刺さるもの、それが「ことば」じゃないですか?

結局、最後は学校教育のことを考えるけれども、学校においてもっと「ことば」を豊かにする機会をつくり出さなければならないという危機感を抱いている。

本を読むことさえほとんどない。そのおもしろさに気付くチャンスさえほとんどない。本気でだれかに伝えたいという経験もほとんどない。

本を読み、おもしろさに気付けるきっかけをつくる。本気でだれかに伝えたいと思えるだけの関心事を持てるようにする。インプットとアウトプットがうまく循環し始めたら、その相乗効果でどんどんことばは磨かれていく。

学校の中で、そんな状況を生み出していきたいなー。

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