見出し画像

ある六月の物語③

「郁人、そろそろ起きたら?もう5時よ。」

ノックと共に、母親の控えめな声で

頭まで被った布団から、郁人は伸びをしながら

這い出す。

実家のある自治会のお囃子の稽古の時間は

月に2回あり、祭り前のこの時期の

土曜日の稽古は毎週になっていた。

郁人は、一応指導者として

この稽古に、毎週出席していた。

18時30分から稽古が始まる。

汗ばんだ体に軽くシャワーを浴びせた。

母親が作ったばかりの焼きおにぎりを

2個頬張りながら、携帯を久々に手に取った。

今日の稽古がある事を知らせる連絡が

グループLINEがきていた。

常に郁人で最後の既読がつく。

他にもLINEは来ていたが、未読のまま

携帯を置いた。

ドライヤーで髪をぐしゃぐしゃと乾かし

少し早めに家を出て、鳥居の階段の下で

煙草に火をつける。

梅雨の晴れ間の夕空は茜色に染まり

煙草とシャンプーの香りで

空を煙で燻らせた。

煙の向こうに

2、3日前に見た光景がフラッシュバックされる。

どうして人というのは

見たくないものほど、見たくない時に

見てしまうのだろうか。

     ~~~~~~~~~~

その日はかなり遅くまで残業していた。

次の日がいつもより早めに起きて

直で客先に行かなければいけない

ちゃんとした理由で、仕事を切り上げて

郁人は帰る事にした。

オフィスを出て、夜食用に買った

ペットボトルとホットフードとおにぎりを

コンビニの袋に入れたまま忘れていた事に

程なく気付いた。 

「何でこうかな…。」

すっかり暗い街の中で、

駄目な自分にそう呟いた。

迷いつつも、オフィスに取りに戻り

フロアに入ろうとした時に、フロア横に

隣接している会議室から

声が聞こえた。 

おかしいな。

この時間に使用する事などないはず。

会議室から光が漏れている。

郁人は足音を抑えて近寄り、目を凝らした。

ブラインドの隙間から見えたのは

千都の姿だった。 

そして千都と話していたのは

千都の直属の上司の立川だった。

二人の居心地の悪さは、

あまり勘の良くない郁人にも

すぐ分かる程に

ブラインド越しに見る二人の姿は

まさにそう、だったのだ。

~~~~~~~~~~~~

あの日からずっと千都の事が気になっていた。

雨の日に、小さな傘に入れてくれて

肩を濡らしてくれたあの日から。

郁人は、タバコを携帯灰皿に

押し付ける様に火を消し、

重い脚で鳥居を潜った。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      読んで頂きありがとうございます。
             誰かに届きますように。

                        LOW

#短編 #小説 #恋愛 #短編小説

   

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?