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決断

卵焼き器を買うのをやめた。もちろんテフロンのコーティングが卵焼きの焦付きを防いでくれることは間違いない。角の絶妙な丸みが返しの作業を楽にしてくれることは間違いない。三層の特殊合金が卵液にじんわりと熱を伝えながら、ムラなく高温を保ち、美味しくふっくらと出来上がることは間違いない。そこら辺の卵焼き器の2、3倍の値段はするその卵焼き器は、決して購入者の期待を裏切らないだろう。

じゃあなぜ買わないことにしたのか。より美味しい卵焼きをより楽に作れるようになるかという性能の問題ではかった。金額の問題でもなかった、良いものにはそれなりのお金を出すと決めている。問題は、その卵焼き器を得ることによって何かを失う気がしたのだ。家でお店のような卵焼きを作れてしまったら、お店で卵焼きを注文する楽しみがなくなってしまうのではないか。自分で作ったものと同等もしくはそれ以下の卵焼きが出されたら、それだけで食事全体の満足度が下がってしまいそうな気がした。だって自分で作るときは自分の好みに合わせて卵焼きを作るのであって、お店は自分の好みなんか知らない訳で、お客さんごとに味を変えるお店があったら、引くほど客足が少ないか、一見さんお断りの超高級店かのどちらかだろう。それはもはや料理人の芸術的表現というより、住み込みの専属料理人の義務と言った方が相応しいかもしれない。お店でわざわざ卵焼きを頼む意味が薄れてしまう。

とはいえ、自分の料理の腕を過大評価している節はあるだろう。その卵焼き器を手に入れたからといって、自分が料理人に引けを取らない卵焼きを作れる保証はどこにもない。だとしても今の使い古した安い卵焼き器よりその卵焼き器を使った方が、美味しい卵焼きを作れる確率が上がるか、作れる美味しさの上限が上がるから、買った方が良いという結論になる。一方で、それで作れた卵焼きが本当に自分で作ったのかどうかという疑問が生じる。そのふっくらとして口の中で溶けるような食感は、自分の腕ではなくメーカーの技術力の成果なのではないか。美味しい卵焼きの作り方を研究し、理想の卵焼き器を設計した技術者達の苦労の賜物なのではないか。事業計画を引き、材料を調達し、製造ラインを立て、販売先を確保し、私の手元に届けてくれた社員達の勤労のおかげなのではないか。

それとも、料理人がただの銅の卵焼き器で作った至高の卵焼きは、素人がテフロンに頼ったところで到底近づくことはできない代物なのだろうか。テフロンで焼いた卵焼きはあくまでテフロン卵焼きで、銅の卵焼きには味も食感も及ばないのだろうか。だとすれば、至高の一品を作ることが目的なら、テフロンで練習するより銅で練習したほうが、到達可能な域は高い。もちろん、料理人が十年かけて身につけた技術を、素人が片手間で習得できるほど料理は甘くないことは分かっている。あるいは分かっていないのかもしれない。職人の卵焼きの9割はわりと短期間の練習で再現できて、残りの1割に十年近く掛かるのかもしれない。その1割に私達は数百円を余分に出しているのだろうか。その十年の時間が1個20円の卵を何倍もの値段にするのだろうか。そう考えれば割安な気がする。私達は時間を買っているということになる。時間だけじゃなくて執念とか情熱にもお金を払っているのかもしれない。十年も卵焼きを作り続けられる自信は微塵もない。お店で卵焼きを注文する度に、自分が生きられなかった料理人の人生にお金を払っているのだろう。

もし9割の出来の卵焼きで満足するなら、そもそも至高の卵焼きを目指す必要性はあるのだろうか。お弁当に入れる卵焼きの質を高めたところで、どれほどの喜びをもたらすのだろう。お弁当がちょっと贅沢になる?お昼休みが少しだけ楽しくなる?同僚に自慢できる?自分の卵焼きの腕に密かに誇りを持てる?何かに上達することで、一向に上達しない仕事からは得られない成長感を得られる?機嫌の悪くなった子供に与えたら機嫌を直してくれる?そもそも子供に卵焼きの味の違いが分かる?喧嘩した夫との仲直りのきっかけに使える?レシピをクックパッドに投稿していいねが貰える?卵焼きのブログを開いて広告収入を稼げる?卵焼き主婦としてテレビ番組に呼ばれる?メーカーから声がかかって、自分が監修した卵焼き器を発売できる?そうなった場合、その卵焼き器を使わないといけなくなるのか。そんなことが契約に含まれるとは考えにくいけれど、普段の卵焼き器を使い続けていることが世間にバレたら売れなくなるのだろうか。それとも私の名前が載っていることだけが重要なのか。でも監修しておきながら自分では使わないというのは、買ってくれた人達を裏切っているような気もする。でも使い慣れていないから、その新しい卵焼き器を使いこなす練習をしなければならない。それで普段の卵焼きと同じ品質のものが作れるかどうかは正直不安だ。あるいはそれも別物と割り切った方が良いのだろうか。素人が作るお弁当用の卵焼きと、プロがお店で出す卵焼きが別物であるように。つまりプロ焼きと、プロ主婦焼きと、素人主婦焼きがあるという訳だ。もはや訳が分からない。

しかし、やはり卵焼きが得意というステータスは魅力的だ。別にそれが商売や名声に繋がらなくても、密かな自慢の一つになる。正直、家族以外の誰かに振る舞うことなんてそう無いのだけれど、隠し持った必殺技を最後に放って形勢逆転するヒーローのような気分になれる。卵焼きは材料も作り方もシンプルだからこそ、技術に差が出る。肉じゃがやカレーよりもよっぽど出来の振れ幅は大きい。寿司屋の実力は玉子に現れるとか現れないとか。スクランブルエッグなんて誰でも作れるのに、卵焼きを作れる人は限られる。キッシュからオムレツまで、世界中で卵は焼かれるのに、和食の卵焼きの繊細さを兼ね備えた料理は他にない。エッグベネディクトでも敵わないだろう。卵焼きは日本人のソウルフードであり、世界に誇れる文化遺産なのだ。その卵焼きが得意であるということには、やはり特別な何かがある気がしてならない。

逆に、そんなに卵焼きへの気持ちが強いなら、なぜ既に得意ではないのかと問いたい。遠の昔に良い卵焼き器を買って、寝る前に料理人のユーチューブを何回も見て、消費しきれない量の卵焼きを家族に押し付けていなければおかしい。卵焼きへの憧れは、空想に過ぎないのだ。今できるのにやらないということは、本当はそれほど欲していないのだ。ちゃんと調べてフライパンを吟味したいとか、家庭のコンロは火力が弱いから難しいとか、何かと言い訳をつけて卵焼き修行を先延ばしにしてきた。それが何よりの証拠である。私は本当は卵焼きにそれほど強い拘りはない。本気でもっと美味しい卵焼きを弁当に入れたい訳ではない。美味しい卵焼きを焼ける自分を想像することに快感を得ているに過ぎない。あるいは、そういうふうに仕向けたメーカーの策略にハマっているのかもしれない。彼らは卵焼きがうまく出来る道具を売っているのではなく、より美味しい卵焼きを作れるようになった未来の自分の姿という夢を売っているのかもしれない。

いずれにせよ、良い卵焼き器で美味しい卵焼きが焼けたとして、自分の腕が上がったとは言えない。美味しさの差分は100%卵焼き器に由来するだろう。つまりその卵焼き器に払ったお金で、何割増しかの美味しさを手に入れているのである。自分が焼いた卵焼きになぜかお金を払って、美味しさを2、3割増しにしているのである。それは何か癪な気もする。元を取るために卵焼きを毎日作りそうだ。作れば作るほど一回分の値段は下がるから。でもそんなに作ってたらすぐに飽きてしまいそう。元をとるのに一体何個の卵焼きを作らないといけないんだろう。元をとる前に卵焼き器が棚の奥で埃を被っている状況は想像に容易い。だとすればそれまでに焼いた卵焼きの値段はとんでもないことになりそう。お弁当に入れる卵焼きに何百円も払っていたら馬鹿らしい。それならもっと良い卵を買うとか、もっと良い出汁や油を使うことにお金を出した方が良さそうな気がする。フライパンのように長い回収期間はないし。一方でそれで素人の舌でも分かるほどの味違いが出るのかは疑問である。実際に試してみないとなんとも言えない。卵焼き器に関しても同様だろう。卵焼き器をお試しできるサービスがあったらいいのに。

結局のところ、銅であろうがテフロンであろうが、新しい卵焼き器を手に入れてところで世界は何もかわらない。手に入れた世界線と手に入れなかった世界線は極めて近似している。二十年後にはどちらか一方がとんでもない変化を経ている確率はゼロに近い。私が監修した卵焼き器は店頭に並ばないし、お店ではいつも通り卵焼きを頼む。家族はお弁当の卵焼きを変わらず美味しいと言ってくれる。私の卵焼きはいつまで経っても私の卵焼きのままである。そして卵焼きは変わらず日本人のソウルフードとしてお弁当の隅に鎮座し続け、私達の口に甘みと旨味と優しさを届けてくれる。

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