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報われない愛に手を伸ばしてしまってる時に読んでほしい記事。


“どうしてこんなに苦しいところにいるんだろう?“、って自分でも思うことがある。
そういうときは間違いなく、「自分が自分のほんとうの願いを聞いてあげられてない時」なんだけど、そのことをどうしてか忘れちゃってる時なんだ。





「傍から見たらさ、君は服もろくに着ないで雪山で寒い寒いって言ってるようなものなんだよな。そこをさっさと降りればいいだけの話なんだけど」

でも寒さを感じて泣き喚くのも人生の醍醐味だし、縄かけて引きずり下ろすのも違うんだよなぁ。そう思いながら、要は「一番に愛されたい」とさっきからわんわん涙を溢している目の前の相手に伝えてみた。

後から思えば「どうして私、あんなに苦しい思いして頑張ってたんだろう?」ってこと、誰しもあると思う。人間って、極限までやってみて、限界を自分で認識するまで諦められない機能が搭載されている。どれだけ手を伸ばそうとその先に求めるものはないと頭では理解していても、それでも、腕が引きちぎれるその直前まで幻想を信じてしまう。人は、夢見る生き物だから。もしくは単に馬鹿だから。そのどちらでもないかもしれない。


『人は満たされて初めて人を満たすことができる』、そんな言葉をいつかどこかで聞いた。当時はそんなことないと思ってたけど、間違いなく真実だ。それどころか、満たされないことで他人の何かを奪ってしまうんだから困ったものだ。経済的に貧しい人でも食べ物をシェアするじゃないかとかそういう反論の話ではなくて、「人は当たり前のことしか当たり前にできない」ってことなんだ。人を笑わせるのが当たり前になってる人は別に毎回サービス精神でやってるわけじゃないみたいに。認められようとか、いつか吉本に入ってやろうとかそういう狙いもなくて、無意識に面白いこと言ってしまう、周囲に止められてもぽろっと言っちゃう。ファッションが好きな人は通りすがりに人の目を引くけれど、それに本人は全く気づいてないみたいな。そしてここで私が言いたいのは、言い換えるなら、人に課している当たり前は自分にも課してしまうしその逆も然りだよね、ってこと。


決して求める愛が得られないと分かっていて手を伸ばすのは。「誰よりその人を愛してるから」じゃない気がする。その愛は一ミリも否定しないけど、その根幹には「一番に愛されたい」って願いがあって、それを自分が放置してるからだと私は思う。もちろんその人に愛されたらどんなに幸せだろうと思うけど、自分一人でも幸せを感じられているなら、自分の人生を脅かされるような恐怖は覚えない。愛は、距離じゃない。向き合う怖さを相手に任せちゃだめだ。自分の満たされない部分を相手でどう満たすか。それは、見方を変えれば、前述の構図になってしまう。……どれだけ一緒にいる瞬間、途方もなく満たされたのだとしても。愛は、枯渇するものじゃない。終わりなく溢れ出すものだから。


私が私を満たす、って言葉じゃ甘い気がしてる。私は私のためにたたかう、そのくらいの強さが必要なんだ。溢れ出して当然の強さ。あなたにも、私にも。自分が自分を幸せにしてあげられない時の気持ちはめちゃくちゃ、痛いほどわかるからこそ言いたい。自分の中が空っぽで空回りしかできない底抜けの寒さも知ってるからこそ言いたい。私は麓で待ってるから。飽きたらその雪山を降りておいで。そして一緒にあったかいカフェラテでも飲んでさ、私たち馬鹿だね、って笑い合おうぜ。そして私が雪山に入っちゃった時は、同じようにして笑ってくれたら嬉しいよ。



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