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サッチャーから見える本当のイギリス

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2020年5月、今ほど世界各国でリーダーシップが論じられ、求められている時はない。 2013年春、サッチャー元首相の死をきっかけにイギリス国内で論争が噴出した。「信念の政治家」と… もっと読む
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記事一覧

あとがき イギリスは民主主義の実験場

 イギリスのEU離脱が決定した後、フランス人弁護士の友達は「経済的にイギリスは絶対にダメに…

ブレグジットというサーガはイギリス版「忠臣蔵」

 2016年に行われた国民投票でイギリスのEU離脱が決まった時、著者は感慨を禁じえなかった。 …

解決しないフォークランド問題

 フォークランド紛争から40年近く経っても、同島を巡るアルゼンチンとの関係は余談を許さない…

終わらない英国病:福祉国家の代償

 2013年、ロンドンのセント・ポール寺院で行われたサッチャーの葬儀がBBCで生中継された時、…

第6章  サッチャーが克服できなかったもの 貧困層の再生産

 第二次大戦の戦後間もない頃のイギリスには階級の違いは至るところにあった。その人を一目見…

サッチャーはなぜ嫌われるのか?

 2013年にサッチャーが亡くなった時、それを祝うため、ロンドンでストリート・パーティを行っ…

人頭税は悪くない

 サッチャーを嫌う人たちは、彼女が1989~90年にかけて導入した人頭税が悪しき政策で、これが国民の反対に遭って政権の命取りになったと主張する。  確かに人頭税はサッチャー政権への逆風となり、彼女の辞任後、首相のポストを争った保守党の3名の候補者は、いずれも人頭税を廃止することを公約した。  だが、既に述べた通り、サッチャーは人頭税に関する責任を取って辞めたのではない。その直接の原因はEUであり、それによって起こった内閣のクーデターである。  サッチャーが人頭税にこだわり、そ

サッチャーはなぜ「独裁者」とお茶を飲み、マンデラをテロリストと呼んだか

 先述の引用の中でケン・ローチは、サッチャーが南アフリカ共和国の元大統領ネルソン・マンデ…

ケン・ローチ批判:イギリスは分断されていた

 ケン・ローチは私が最も尊敬するイギリスの映画監督の一人である。社会の弱者の立場から作品…

努力さえすれば誰でも成功できる:サッチャーの申し子たち

 サッチャーが80年代以降のイギリスにもたらしたインパクトはあまりに大きかった。それはヴァ…

第5章  それでもサッチャーを評価する   成果は30年後に現れる

 2013年のサッチャーの追悼スピーチで、キャメロン首相は「彼女が首相に就任した時に存在した…

サッチャーを切り捨てたエスタブリッシュメント

 既に述べたとおり、サッチャーは保守党内で自分が常に部外者だと感じていた。性別だけでなく…

サッチャーはなぜフェミニストを嫌ったか

 『鉄の女の涙』の監督フィリダ・ロイドは、イギリス演劇界の多くの女性と同様、自称フェミニ…

花開いたサッチャー文化…たとえどんなに嫌われても

 1979年、総選挙で圧勝し、首相となったサッチャーは、直ちに全省庁に対し、10~20%の予算削減を要求し、市場原理の導入を奨励した。  この方針は高等教育機関にも及んだ。オックスフォード大学の学生時代に自分の受けた教育に物足りないものを感じていたサッチャーは、大学が国に守られすぎていることが良くないと考えていた。  1980年代の初頭、イギリス人の大学進学率は12%で、大学の運営資金の80~90%は国が助成していた。サッチャーはその20%を削減したため、大学側は学生に不人気