第5章  それでもサッチャーを評価する   成果は30年後に現れる


 2013年のサッチャーの追悼スピーチで、キャメロン首相は「彼女が首相に就任した時に存在した問題は、もう今や問題ですらない」と述べた。彼の言う通り、ヨーロッパの最貧国だったイギリスは今では最も豊かな国の1つになった。イギリスの失業率はEU諸国平均の半分になった。 
 ロンドンも大きく変わった。寂れていた区画は殆ど再開発され、都市全体がグレードアップした。20年ほど前までは荒れ果てて危険だったイースト・ロンドンや南部のクラッパムなどもトレンディなエリアに変身した。
 海外資本の流入もロンドンにエネルギーと活気をもたらした。中東やアジア、中国の企業による不動産投資やロンドンへの進出も盛んになった。ロンドンが産業界にとっても、投資家にとっても魅力的な国際都市になることは有利であるから、政府もこれらを受け入れてきた。
 前述の1985年の映画『リヴァプールから手紙』に登場したリヴァプールは、夢も希望もなく、気が滅入るような街だった。1983年から87年までリヴァプール市議会は労働党内のミリタントの党員に支配され、中央政府からの予算削減に歯向かっていた。彼らのバラマキ行政で市の財政は破綻し、労働党党首のニール・キノックもミリタントとの決別を宣言。87年の総選挙での敗北も彼らに一因があったとして、ミリタントは労働党から除名された。
 リヴァプールに平静が訪れると、都市再開発への投資が始まり、90年代後半からイギリスのどの都市よりも急速に発展した。ウォーターフロントはミュージアムが建ち並ぶ観光名所になり、街は美しく生まれ変わった。2008年にはヨーロッパの文化首都に選ばれ、好景気が続いてきた。今、この街を初めて訪れる人は、嘗てここがゴミや死体の山に埋もれていたとは信じないだろう。誰もそんな70年代に戻りたいとは思わないだろう。
 サッチャーに抵抗しながらも、いつしか起業家精神を取り入れ、やがて繁栄していったものに、イギリスの演劇界がある。
 イギリスの劇場運営費は70年代まで、国がほぼ100%出資してきた。これは戦後政治のコンセンサスの1つだった。ところが、サッチャーの予算削減によって、地方の劇場の4分の1が閉鎖に追い込まれた。
 サッチャーの言い分は、芸術というのは予測不可能なものであり、国の機関が審査して認めた作品だけに助成金を出すシステムは、逆に芸術の可能性を狭めているかもしれない、というものだった。
 1973~88年にイギリス国立劇場の芸術監督を務めたピーター・ホールは、国の助成金なくして芸術は成り立たないと考えていた。そんな彼にサッチャーが「アンドリュー・ロイド・ウェバーのようにやればいいのよ」とアドバイスしたため、彼女は演劇界を敵に回してしまった。
 ロイド・ウェバーは『キャッツ』や『スターライト・エクスプレス』『オペラ座の怪人』といったミュージカルを世に送り出し、1980年代、ウェストエンドで商業的に最も成功したプロデューサーだ。
 翻って、ホールは1960年にロイヤル・シェークスピア・カンパニーを創立し、エリートの文化として演劇を育んできた人物である。彼から見れば、サッチャーは芸術への造詣がない人物に映っただろう。
 サッチャーの時代から十数年を経て、2003~2015年の国立劇場の芸術監督に就任したニコラス・ハイトナーは、新規の観客層を取り込むような多彩なプログラムとキャスティングを企画しながら、作品の質を高めるということをやってみせた。ウェバーのような大衆演劇でもなく、かといってホールのエリート的観念に留まらない、新しいポジションを目指したと言っていいかもしれない。国からの予算は投資とみなし、プログラムを厳選し、資金集めに知恵を絞り、スポンサーにとって魅力的な広告宣伝の場や機会を提供した。
 国立劇場がプロデュースした作品はウェストエンドでもロングラン上演された。なかでも大ヒットした『ウォー・ホース~戦火の馬~』は最も成功した作品の1つとなり、世界ツアーも行った。こうして国立劇場は年間8,000万ポンドの収益を達成しただけでなく、組織の存在意義を再定義し、価値を高めることに成功したのである。
 政策の成果というものは、実は30年ぐらい経った後にようやく見えてくるものなのかもしれない。サッチャーが撒いた種は、紆余曲折の末、新たなイギリスの力となって結実したこともまた事実なのである。

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