花開いたサッチャー文化…たとえどんなに嫌われても


 1979年、総選挙で圧勝し、首相となったサッチャーは、直ちに全省庁に対し、10~20%の予算削減を要求し、市場原理の導入を奨励した。
 この方針は高等教育機関にも及んだ。オックスフォード大学の学生時代に自分の受けた教育に物足りないものを感じていたサッチャーは、大学が国に守られすぎていることが良くないと考えていた。
 1980年代の初頭、イギリス人の大学進学率は12%で、大学の運営資金の80~90%は国が助成していた。サッチャーはその20%を削減したため、大学側は学生に不人気な講義や教員を整理せざるをえなくなり、全国で教員3,000人が解雇された。当時、大学教育は無償だったが、留学生は徴収の対象となった。1986年には、研究の成果に応じて各大学に資金を分配する研究評価事業(Research Assessment Exercise)が設けられた。
 ケインズ派や左派系の学者たちは、これらの一連の改革を大学及び自分たちへの圧力や締め付けと捉え、一斉にサッチャーやニュー・ライト(新右翼)の批判・研究を行った。森嶋氏はじめ、私にサッチャー批判を勧めたアメリカの指導教官も同様である。彼らの研究は、新自由主義批判という1つの潮流に組み込まれていった。
 サッチャーはクリエイターやアーティストにも多大な閃きを与えた。彼らの殆どは彼女を憎みながら、彼女や彼女の時代をテーマにした作品を数多く生み出した。結果として、サッチャーは全く無意識的にイギリスのクリエイティブ産業を推進する原動力になった。サッチャー文化が花開いたのである。
 これらのクリエイターたちは、サッチャーを非難する作品を作ることで支持され、収入やステータスを獲得した。サッチャーを批判して新たに注目を集めた学者たちと同様、サッチャーに借りがあるということになる。彼らがサッチャーを憎めば憎むほど、彼女を恨む作品を作れば作るほど、彼女の存在はますます揺るぎないものになっていった。
 イギリスのロック・ミュージシャンのなかには、デビューする前は定職に就かず、国の手当を貰って創作活動を行ってきた者も少なくない。このため、彼らは社会の最下層の人々や失業者に同情的であり、自分たちの作品を通してサッチャーを批判することは自然な流れだった。サッチャーの時代を殆ど知らない若者が、サッチャーの死の直後、ストリート・パーティを開いて浮かれていたのも、こうしたミュージシャンらの影響を受け、共感したからである。
 サッチャーを呪う歌を作ったイギリスのミュージシャンの代表格といえば、カトリック系北アイルランド人の血を引くモリッシーだろう。彼は1988年のソロ・アルバムのなかの『マーガレット・オン・ザ・ギロチン』という曲で、サッチャーに死んでほしいと歌うほど彼女を憎んでいた。彼のバンド、ザ・スミスの活動期間は1979~90年で、サッチャーの首相在任期間とそっくり重なってしまう。彼女に支配された時代に活動したこともよほど悔しかったとみえるが、その憎しみが彼の創作に付加価値を与えていることも事実である。
 サッチャーを嘲笑って大ヒットしたイギリスのテレビ番組に、ITVで1984~96年に放映された"Spitting Image”(「瓜二つ」という意味)がある。当時の政治家や王室メンバーのパペット(人形)が登場し、カリカチュアのコントを繰り広げるものだが、80年代のテレビを代表する傑作と言っていい。
 各人物の顔や外見の特徴が誇張されたパペットは非常によくできており、見ているだけで笑いを誘う。現実のサッチャーはスカートしか履いたことがなかったが、ここではいつも黒のパンツ・スーツにネクタイをした男のような姿で現れる。サッチャーはインタビューで自分のパペットについて感想を聞かれた時、「鼻が大きすぎるかも。私、ネクタイは着けたことがないのよ」と楽しそうに語っている。この番組もサッチャーなくしては生まれなかった。
 不毛の70年代から一転し、イギリスの映画産業は80年代にルネッサンスを迎えている。この時代に製作され、高く評価された作品の数々は、いずれもサッチャーに対する批判の色が濃いといわれている。
 スティーブン・フリアーズ監督の1985年の作品『マイ・ビューティフル・ランドレット』の主人公は、ロンドンに暮らすパキスタン移民の青年だ。彼の叔父は自称「実業家」であることを誇りにしているが、彼の父親は元社会主義者で、今はアル中になってしまった。つまり叔父も父もサッチャーの時代を象徴する人たちで、彼女の政策がロンドンの移民社会に与えている影響がリアルに描かれていた。
 テリー・ギリアム監督の1985年の『未来世紀ブラジル』やマイク・リー監督の93年の作品『ネイキッド』も、サッチャーの時代からインスピレーションを得たディストピアを描いたものだとされている。89年の『コックと泥棒、その妻と愛人』の監督ピーター・グリーナウェイは、「これは恐らく私が作った唯一の政治的作品である。それはサッチャーの時代に対する痛烈な非難から始まったものだ」と作品を解説している。これらの作品は不安に突き動かされて作られたものであると同時に、それぞれの監督の代表作になっている。
 サッチャー絡みの映画といえば、2011年に世界中でヒットした『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』がある。
 この映画はサッチャーの伝記映画と紹介されたりもするが、多分に演出が入っており、事実ではない部分が多々見られる。サッチャーを演じたメリル・ストリープは米アカデミー最優秀主演女優賞を受賞してしまったし、彼女の演技力については疑問の余地はないが、実物のサッチャーはもっと凄みがあり、貫禄があった。これは映画を観たサッチャーを知る政治家たちの一致した意見でもある。
 この映画の監督のフィリダ・ロイドは、サッチャーが首相になった1979年に大学を卒業し、サッチャーの時代に演劇界でのキャリアを築いた女性演出家だ。99年、劇場版ミュージカル『マンマ・ミーア!』を演出。2008年にはその映画版(メリル・ストリープが主演)の監督も手がけ、どちらも世界中で大ヒットを収めた。
 ロイドがサッチャーのファンでないことは、作品を通してひしひしと伝わってくる。作品のテーマは「老い」であり、認知症に苦しむ女性の姿を侘しくみせるものでしかなかった。『鉄の女の涙』という邦題にも拘らず、サッチャーが一人の女性として、どのような苦労や葛藤を乗り越えて首相になるに至ったか、どんな悔し涙を流しながら勝ち残ってきたか、という点は完全に無視されている。ロイドは敢えて作品のなかで、サッチャーの政治について語ることを避けている。
 この映画が公開されたのはサッチャーが亡くなる2年前だったが、作品を観たデヴィッド・キャメロン首相は、「この作品がなぜ今、作られなければならなかったのか、分からない」と感想を述べた。2008年にサッチャーの認知症を著書で暴露した娘のキャロルをはじめ、彼女の家族は誰も試写会には現れなかったという。
 イギリスでは公文書法に基づき、政府が指定した機密書類は通常30年後に公表される(通称「30年ルール」)。フォークランド戦争に関する機密文書は、あれからちょうど30年経った2012年、つまりこの映画が公開された翌年に公開された。事実に忠実な伝記映画を撮るのであれば、それらを待って製作に取りかかるべきだろうが、ロイドは敢えてそうしなかった。
 映画のなかのフラッシュバックで甦る政治家時代のサッチャーは、概ねアンチ・サッチャーの人たちが妄信しているイメージそのままに描かれている。その最たるものはフォークランド戦争勃発後のシーンだ。
 1982年5月2日、イギリス海軍の原子力潜水艦コンカラーがベルグラノを撃沈し、200名以上のアルゼンチン兵の死者を出したことは国内外の論争を呼んだ。攻撃された時、ベルグラノはフォークランド諸島の封鎖海域の外を航海中で、しかも島から離れようとしていたともいわれた。
 映画では、サッチャーが軍の司令室のような所で、アルゼンチン海軍の巡洋艦ベルグラノについて報告を受ける。その場にずらりと集まった軍の司令官の男たちは、ベルグラノは脅威ではないように見えるし、攻撃すれば国際的信頼を失いかねないとサッチャーに進言する。それらを一通り聞いた後、彼女は「(ベルグラノを)沈めなさい(Sink it!)」と言うのである。
 これは事実ではない。
 実際にはベルグラノ攻撃の際、サッチャーは司令室になどおらず、バッキンガムシャーのチェカーズと呼ばれる首相別邸にいた。攻撃を決定したのは前線にいた海軍司令長官のサンディ・ウッドワードで、その指令が同時にチェカーズに伝わり、戦時内閣による会議を経て、サッチャーがこれを了承したのである。
 イギリスはこの10日ほど前の4月23日、南太平洋上にアルゼンチン側の軍艦が接近すれば、然るべき対応を取ると伝えてあって、これはアルゼンチン側も承知していた。つまり封鎖海域の中であれ、外であれ、或いは島とは反対の方へ向かっていたとしても、そこに漂っていれば攻撃対象となった。当時、ベルグラノの艦長だったヘクター・ボンゾも後にこの攻撃について、「あれは戦争犯罪ではなく、戦争行為であり、合法である」と証言している。
 さらに、ベルグラノはわざと封鎖海域に入るよう上層部から指令を受けていたこと、その指令をイギリス側が知って攻撃に踏み込んだことも機密文書の公開で明らかになっている。
 当のサッチャー本人が最も気にかけたのは自分の国の評判であり、自分自身については世間から何を言われても殆ど気にしなかった。ベルグラノ攻撃に関して賛否両論が起こった時、彼女は一切弁明しなかったが、後から考えれば、防衛上の理由などから話せなかったといったほうが正しいかもしれない。
 サッチャーは多くのことを語らないまま、それらを胸のうちに秘めて逝った。世間が真実を知る日が必ずやってくることを彼女は分かっていたのだ。史実が明らかになった今、『鉄の女の涙』もファンタジーに過ぎないことが証明されてしまった。


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