サッチャーはなぜ嫌われるのか?


 2013年にサッチャーが亡くなった時、それを祝うため、ロンドンでストリート・パーティを行った人たちがいた。そこには多数の30代の人たちが参加していた。テレビのレポーターが彼らにインタビューすると、サッチャーがイギリスをダメにしたと言って怒りを露わにしていた。
 しかし、彼らは80年代以降に生まれ、サッチャーの時代にはまだ幼すぎて、彼女の政治など殆ど覚えていないはずである。
 愛の反対は無関心であり、誰かを憎むことはその相手に無関心ではいられないということを意味する。サッチャーが逝ってわざわざ広場に集まってお祭り騒ぎをした人たちは、彼女に非常に関心があることだけは確かだろう。
 スコットランド議会議員のデイビッド・トレンスは「サッチャーを批判することで、彼女が提起した問題に取り組まずに済む。問題を直視するのではなく、全て一括りにしてサッチャーのせいにすればいいのだから」と言う。つまりこうした人たちは、サッチャーを憎むことで問題の責任転嫁をしているだけでなく、自分にそれを解決する力がないと宣言しているのと同じなのだ。
 この人たちは、現在のイギリスの競争社会で勝てないと思っている、或いは勝てなかった集団である。彼らはサッチャーが撲滅しようとした英国病にかかっていた頃のイギリスに戻りたがっている。あの時代なら自分たちが落ちこぼれでも、そもそもイギリスという国が落ちこぼれだったから、気楽に生きられる。
 或いは、サッチャーに対してあまり良い印象を持っていない人たちのなかには、彼女が学校時代の厳しい教師や校長先生を思い出させるから、という人も少なくない。決して甘えを許さず、自分たちに劣等生のレッテルを貼るだけの厳格な「教育者」のイメージを、彼女に重ね合わせていたのかもしれない。
 女性がまだ社会進出していない時代に登場したが故に、女性としてのサッチャーの言動は悉く目立ってきた。前述のように、サッチャーは初めから鉄の女だったわけではない。本来自分の中に備わっていた女性らしさや傷つきやすさを敢えて抹消しながら、国を治めねばならなかった。
 サッチャーが全く弱さを見せなかったことから、彼女は逆に付け込まれ、嘲笑の対象にされた。
 例えば、コメディアンのマイク・ヤーウッドが女装してサッチャーの物真似をすると、コメンテーターが「サッチャーを女装させたのか!」と突っ込んで笑わせた。劇作家のデニス・ポッターは「サッチャーの仕草はセクシーでポルノ女優を思わせる」とからかった。
 前出の歴史学者サンドブルックは「男性の首相や議員だったらここまで言われない、これはセクシズム(性差別)だ」と批判している。
 サッチャーの死を祝ってストリート・パーティをした集団は「Bitch is dead」と言って喜んだ。これは「魔女が死んだ」と日本のメディアでは訳されているが、bitchyという英語は意地悪な女性に対して使われる形容詞であり、bitchも同じ意味が含まれている。意地悪な男性を指す形容詞は思い浮かばない。意地悪な男性が世の中にいないわけではないが、女性に対しては母性や優しさが求められるのだろう。
 ストリート・パーティを開いた若者たちは、サッチャーには母性も優しさもないと言ったが、フォークランド戦争中、彼女はイギリス兵が亡くなる度に涙を流したし、自分のために働いてくれるスタッフに対して、彼らをやる気にさせるような電話、手書きのメッセージ、プレゼントといった、ちょっとした親切や気遣いを忘れることがなかったという。
 これらの若者は、同じ立場に立ったら、果たして同じことができるのだろうか。
 サッチャーをあからさまに嫌う人たちは、現状の自分の生活や自分自身になんらかの不満がある。サッチャーの考え方では、全ては自己責任だから言い訳できない。この集団は自分たちが彼女の尊敬を得られないことを知っていて、自分たちから先に彼女を軽蔑している。これは心理学でいうところの防衛機制に当たる。誰かの言動によって自分たちの存在が脅かされると感じるため、攻撃されたわけでないのに、その相手に対して攻撃的になるのだ。彼らにとって、サッチャーは恐るべき存在なのだ。
 サッチャーを恐れたのは国民の一部だけではなかった。彼女の実の子どもたちも同じだった。
 マーガレット・サッチャー(旧姓ロバーツ)は塗装会社の取締役だったデニスと1951年に結婚した。53年、弁護士試験に合格した年、男女の双子のマークとキャロルを出産した。サッチャーが議員に初当選したのは双子が5歳になった時だった。
 物心ついた頃から乳母に育てられ、7歳の時から寄宿学校へ入れられた双子は、実の母親から、母性愛ではなく、常に権威的なものを受け取ってきた。そのため、親子の関係はどこかぎこちない、緊張したものになった。
 しかもキャロルは母親のお気に入りは自分ではなく、マークだと感じて育つようになった。マークとキャロルは年が同じであったが故に一層、その反目は激化した。キャロルは自分がマークに比べ、外見も能力的にも劣っていると思うようになった。
「自分はいつも2番目だと感じていた。愛されなかったとは言わないけど、評価されているとも思わなかった」
 自信がないまま育ったのは、実はマークも同じだった。子どもの頃、寒さを理由にスキーのレッスンを受けたくないと言った時、サッチャーはそれを受け入れなかった。彼は母親の温かさに飢えていたが、それは得られなかった。
 実のところ、キャロルはマークよりも優秀だった。彼女は名門ユニバーシティ・カレッジで法律を専攻し、オーストラリアでジャーナリストになった。一方、マークはパブリック・スクールのハロウ校へ潜り込んだものの、成績は芳しくなく、大学にも進学できなかった。会計士になるための試験も3回受けて、全部失敗している。
 金髪で長身のハンサムな青年に成長したマークは、しばしばマスコミを騒がせる事件を起こすようになる。1982年にダカール・ラリーに参加して6日間、行方不明になり、サッチャーが仕事が手につかなくなるほど心配させた。
 その後、サッチャーの力で交渉が成立したアラブ諸国の武器や建設関連の事業で巨額の仲介料を稼ぐようになり、80年代後半にはミリオネアになっていた。デニスが亡くなった翌年の2004年、マークはクーデター計画に使われたヘリコプターを調達した罪で、赤道ギニア政府から死刑を宣告された。このような事件に巻き込まれたのも巨額の報酬目当てだったといわれるが、彼は多額の保釈金を支払い、実刑は免れた。
 このようなマークをキャロルはトラブルメーカーとみなし、彼とは常に距離を置いた。サッチャーの子どもたちは互いの溝を超えられないまま、母親への不信感が拭えないまま、結局、どちらも彼女から離れていった。キャロルはこう語る。
「大人になった子どもたちが母親の元へ戻ってきて、失われた時間を取り戻そうとするなんて期待してはいけない」
 サッチャーは家族のことを聞かれると、達観したように「ほらね、人は全てを手に入れることはできないのよ」と言った。同時に「子どもたちに与えた影響を考えると、もう一度人生をやり直せるなら、政治には進まない」と告白した。晩年、自分の子どもや孫たちと密接な時間を過ごせなかった彼女は、充分、その報いを受けたといっていい。サッチャーが自分のやりたいことを貫くために何かを犠牲にしてきたとしたら、そういうことになるのだろう。
 
 


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