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東日本大震災の記憶。

当時、自分は絶賛引きこもり中で
そのときは鬱々とした廃人のような生活を送っていました。

3月11日のその日。

いつものように午後から、デスクトップパソコンでネット検索やスレッドを読みあさりながら、オンラインのラジオも同時に聴いていました。

3月ということもあって、天気は雪曇り。
外は冷たい風が吹いていたと思います

ふと…  軽めの地震が来たので、
「お、地震か。」と思っていたのも束の間。

窓越しに見ていた空の天気に異変が……
鬱々とした曇り空が突然、一気に快晴になったかと思いきや
次の瞬間には轟音を立てて、
巨大な地震の揺れが この街を襲ってきたのです

その揺れは次第に、より大きくなってゆき、やがては更なる振動とともに、家や地盤そのものが激しさを伴ってぐらぐらと横に揺れ出しました

これがただの地震ではないことに気付くや否や
ラジオからは「地震です!」「出来るだけ安全な場所に、今すぐ避難してください!!」と、パーソナリティーの叫び声のような警告が聴こえて来ました

圧倒的な地震の揺れに どうしたらいいのか分からず、二階で揺れが静まるのを、しばらく周囲にしがみつきながら待とうとしますが… 
その大きな揺れは、まったく治まる気配がない……

窓越しに外を見てみると、電信柱や隣の家々が ぐらぐらと横に大きく揺れまくっていました
机に収まっていた本や辞書やCDや、箪笥の上にあった雑貨の諸々などが、大きな地震の揺れによって次々にバタバタと無造作に落ちてゆき…… 最早、掴まっていることだけで既に精一杯。
ラジオはしきりに、未知数の災害の状況や警告を発信し続けていました。

地震の警告も束の間
今度は、「津波です!」「今すぐ沿岸部から離れ、逃げてください!」「津波が発生しました!今すぐ避難して下さい!!」と
悲鳴のような繰り返しの警告がラジオから響き渡っていました

大きな揺れも未だ治まらず、それでもなんとかこの状況や他の地域の現状と惨状を少しでも把握しようと、ドタドタと急いで一階へ降り、床に落ちて割れている皿やコップのガラスの破片に注意しながら、なんとかテレビをつけて見やると

そこには、広大な範囲の地震の揺れや、沿岸部や漁港の町に押し寄せる津波や、その影響で発生した住宅の倒壊やコンビナートの火災の映像や、山々の土砂崩れの惨状が、次々と映し出されていました……
同時に、原子力発電所の被害状況も未知数のようで、「現在、被害状況を確認中です!!」としきりに報告し続けている様子……

自分の住んでいる地域が福島県内で、原発の万が一の影響も、その時何故か すぐ考えることが出来ていたので、地震の揺れに負けないように
とりあえず、ガスや火の元の安全を確認し
その次に、お風呂場の浴槽に 断水したとき用の水を貯めて確保しつつ…
家の窓やドアをすべて施錠し、外にすぐ出られるように、玄関だけは開けっ放しにしたまま、臨時ニュースを見逃さないように注視していました

あまりにも現実離れしている状況下に自分が置かれていたせいだからなのか
地震や津波の甚大な被害も、そのとき頭の中で漠然と想像しながら 身体も動けていて
それと同じく、原発の被災状況も最悪な事態を考えながら行動することが出来ていたので
心のなかで、「このまま留まっていていいのか」「それとも、今すぐ自宅を捨てて、とりあえず範囲から避難した方がいいのか……」やけに冷静に考えを巡らせていたことを覚えています

家族(両親)はそのとき、栃木県のほうへ用事があって出掛けており、その安否が気になってはいましたが
この状況のなかで、とりあえずこの古びた自宅だけは二人が戻って来るまで守ろうと。
その気持ちだけは、確かなものだったと思います。
帰ってくるであろう、家族を待とう… と。




ここから先は記憶が酷く曖昧で、読んで下さっている方には申し訳なく思うのですが
実際、自分の記憶がそうなるくらいには、東日本大震災という出来事は、穏やかな日常が一瞬にして崩壊してしまうぐらいの
大きな災厄だったのだと…
極めてショッキングな出来事だったのだと…
振り返ってみて、改めて思います。


おさまらない激しい揺れ
テレビの臨時ニュースに次々と流れてゆく
岩手県、宮城県、福島県と、その隣県の被災状況……
まるで世界の滅びのような、破滅的な映像の数々に 言葉を失います……
自然の無慈悲さが、次々と 多くの人々の命を、一瞬にして 奪ってゆく……

ちっぽけな自分の無力さを悟りつつも
" 原発の放射能 "という、見えない脅威に、怯えもしたことを覚えています
この状況が、最低限 安全であるのか、
また、そうではないのか……。

どれくらい揺れが続いたのか
どのくらい臨時ニュースの映像を見続けたのか。


地震により 住宅や建物が倒壊した映像…

押し寄せてきた、漆黒のような巨大な津波が、次々に 街や人々を呑み込んでゆく映像…

火災や巻き上がる煙によって、沿岸部の街が 容赦なく… 掻き消えてゆく映像…

アナウンサーの悲鳴にも似た被災状況の報告が、繰り返し伝えられる…

揺れがおさまったと思っても、強い余震がまた、立て続けにやって来ます。

家の最低限の片付けをしながら、家族の帰りを待ちました。
夕方になって両親がようやく帰宅し、お互いの無事にとりあえず安堵し、乱雑になった自宅の屋内の様子に、それぞれ顔をしかめます…


余震と併せて原発の危険性も有り、あらゆる意味で 予断を許さない状況。
夕方にかけて夜まで、その日はずっと、自宅の居間で家族と震災の臨時ニュースを注視しながら、余震に怯えながら、寄り添うように一夜を過ごしたように記憶しています

幸い、自分の住んでいる地域は停電には至らなかったのですが、万が一 停電しても大丈夫なように、懐中電灯や蝋燭を準備しつつ
暖を取る為の毛布なども用意して、まったく眠れないまま、夜を過ごしたと思います。

水道のほうは、うちは古い家なので
井戸水がちゃんと流れており、断水することもなかったですが、放射能の脅威も頭をよぎっていたので… それほど積極的に 水を飲もうという気持ちにはなれませんでした。

その安全性が、ある程度分かるまでは。



眠れないまま夜が明けて
付けっぱなしのテレビ、そしてニュース…

両親にあらためて外の状況を尋ねると
栃木県から福島県に戻る道中、まるで波のように揺れる建物や道路の光景を見、そして倒壊した建物やヒビが割れて寸断され隆起した脇道があったことなどを知ります…

それでも幸い、自宅に到着するまでの大きな道路は、なんとか車で走行できた様子。
そして、自分の住む街は割かし地盤が硬くてしっかりとしているので、「地元に戻るにつれ、建物や道路などの倒壊はそれほど見なくなっていった」との事でした。


画像にある通りに

原発の炉心が溶融し、最初に、耐えきれずに爆発したのが 3月12日。
震災が発生した次の日です。

このニュース映像を、自分たちは自宅で固唾を呑んで注視していましたが
放射能の影響がどのくらいあるのか分からず… 
家族内でも、「少しでも遠くへ避難しよう」という意見と、「このまま留まって様子を見よう」という意見で分かれたのを覚えています。
何度でも書きますが…
本当にいつ、どうなるかわからない
予断を許さない状況だったと思います。

自分たちに出来たことは、とりあえず家の戸締まりをし、持ち得る限りの着替えや水や食料を準備して、いつでも他所へ逃げられるように…
車の中へと、その荷物を急いで移すことぐらいだったと思います。


携帯もまったく繋がらず…
それがどれくらいの時間続いていたのか…
恥ずかしながら詳細に記憶していないのですが

東京に住む姉や従兄弟(姉妹)たちから、しばらく経って通信網が復旧したあと一斉に電話が掛かってきて、「そっちは大丈夫?!」としきりに心配してくれた事を思い出します

自分も、浜通りに住む友人や知人に連絡をして、とりあえずはその安否を確認し声を聴くことが出来たので… 少しだけ、安堵したのでした
同時に… 助けに行けない自分を、恥じたことを思い返しました
なんの役にも立てない、自分自身のことを。




その日も同じように

繰り返し襲ってくる余震に怯えながら
心臓を抉られるような、悲惨なニュース映像と原発の動向に、それでも注視しながら
眠れない一夜を過ごしたように思います。



3月15日。

当時の時系列の記憶がひどく曖昧だったので、確認のため、あらためて同じ内容の画像を2枚載せましたが、12日に続いて、連続して原発の爆発があったのですね…


自分の記憶力の無さに落胆もするのですが、あの当時は、目の前のことで精一杯で、状況を整理する心の余裕もなかったのだと思います

被災した人々や、それ以外の地域で見守る人々それぞれが、不安と絶望に苛まれながら…
1日1日を それでも生き延びていたのだと思います。

原発の建屋が破壊されたことで
それをニュースやラジオで知った、自分の住んでいる地元の周りの人々は、それぞれが不安と焦燥に刈られていました……

県外へ避難しようとした人たちもいれば
地元の公民館や体育館で 家族や親戚ぐるみで留まろうとした人々も たくさん居たように記憶しています

自分たち家族も、自宅に" 留まる事 "を選んだのですが…
その理由は、「ガソリンが足りない」事と、「そもそもが他に行く宛てがなかった」ことでした。
それに、道路も寸断されている可能性も高く、テレビも見られない状況では、迂闊に動く事が出来なかったからなのだと思います。

同じく地元で暮らす、ほかの親戚身内たちにも連絡を取り合って声を掛けてみましたが、みんな、同様の考えに至った様子でした。



突然襲ってきた災厄によって
道路や他のインフラは寸断され……
そこに住むすべての人々が、ガソリンや食料の調達さえままならなかったと云う状況でした。

街のガソリンスタンドには道路に添って長蛇の列が出来、1台あたりのリッター制限が設けられており、燃料の調達も避難も難しい状況にあったと思います。

そして、スーパーやコンビニでも同じように、食料や飲み物を調達しようと集まってきた人々によって、あっという間に 商品は" 品切れ "となってしまっていたのでした
俗に言う " 取り合いや " 買い占め "なども、少なからずあったと思います。。

いつインフラが復旧するのかも分からず
なので必要以外は、なるべく" 飲まず・食わず "……
状況が改善に向かうまでは、無駄を削ぎ落としながらの生活を、皆が意識していたと思います。



政府は福島県の特定の地域に、一刻も早く、原発の避難指示を出しましたが
それ以外の地域の人々に対しては、避難や待機の指示は、当時、ひどく曖昧だったように記憶しています  (← 自分が情報を知らなかっただけだったらすみません……)

福島、宮城、岩手の被災3県の凄惨なニュースを見、その絶望的な状況のなかで。

目の前の不安や問題を払拭するために責務を全うしようと奔走する、原発作業員の方々や自衛隊などの組織、警察や消防、医療や救急に従事する方々、各工場や施設等の責任者や従事者の方々たちは兎も角、
被災した県に住む人々に関しては、
" いつものように "仕事に従事しようと奮起出来ていた方々は、実はかなり少数派だったのではないかな…と 個人的には思います

だいたいの人々がそれぞれ、自宅や避難場所にて家族や親戚ぐるみで待機し、震災の動向を注視していたように思います。

その圧倒的な自然の災厄と、未曾有の原発事故に際して… 
どうしようも無い絶望的な状況に、日本中の皆が、打ちのめされてしまっていたのだろうと…
とても何かに取り組める状況や心境ではなかったのだろうと… 
終わらない臨時ニュースを観ながら、不安に苛まれながら過ごしていた当時…
自分の身辺や、テレビで流れる世間の現状を目の当たりにしながら
そんな風に 思ったりもしました。。



それから。

被災してどれくらいで" 日常 "に戻ることが出来ていたのか……?

それが1週間なのか、1ヶ月なのか、半年なのか。それとも一年間なのか?。

自分の住んでいる地域のことなのに、この小さな辺境の街の人たちが、どのくらいで日常に戻ろうとしていたのか……
戻ることが出来ていたのか……
実はあまりよく覚えていないのが本音です。

そもそもが自分はそのとき、すべてに塞ぎ込んで引きこもっていたから、外の現状がどういった状態にあるのか……
知る由もないのは 当たり前なのだけど。


ただ、強めの余震が昼夜問わず幾度も襲って来ては、そこに住む人々たちは次第に…その揺れに慣れていったことだけは、紛れもない事実ではあると思います

最初の頃はみんな怖がっていましたが
日が経って落ち着いてゆくにつれ、ある程度の強めの余震さえも、生活の一部に馴染んでしまっていた当時のことを思い返していました。

自分の記憶では、東日本大震災が起こってから、少なくともその余震が一年間以上は、昼夜構わず継続してやって来ていたことを記憶しています。


余談になりますが、

県内で採れるきのこや山菜の類いは、大気へ放出され 土壌に蓄積されたであろう放射能の影響から、被害を被った地域によって、その後何年も採集や飲食を控えるよう、注意換気がなされていた事も有ります。

残念なことにそれは勿論、決して山菜だけに限った事ではありませんが。。


………………

…………

……




あれから今年で13年。

被災した各地の復興と同じくして
自分の身辺も、あれから多くの様々な出来事や、人生での紆余曲折がありました。

長いようでとても短かったような……
そんな思いです。

今回、当時の自分の記憶を思い返し
拙い文章で綴ってみましたが…
つらい記憶が多い出来事だったので、物事を断片的にしか記憶しておらず……
書いていて、とても歯痒い思いではあります

それでも、記憶や記録として
どうしても、少しだけでも書き綴りたいと以前から思っていたので……
あらためて、体験談を書き綴らせて頂きました。



震災直後。

テレビの臨時ニュースの間に流れる、ACの某コマーシャルの音と台詞を、未だに思い出します。
過剰なくらい 何度となく目にした、あのCMの事を。

このCMに罪はないことは分かっていても
一種のトラウマになってしまっている方々も、多いと思います。。




最後に。

この日記にたどり着き、文末まで目を通して読んでくださった、心ある方々へ。
あらためて、お礼を申し上げたいと思います。

私の拙い体験談に目を通して下さり、
本当に ありがとうございました。

来るべき 次の災害に備えて……

この記録と記憶が、少しでも 誰かの役に立つことが出来たならば、当方も嬉しく思います。


自分が住んでいる福島県の現状を どうしても自分の目で確かめたい気持ちから

2022年に、福島第一原子力発電所、周辺の街の復興の様子を 少しだけではありますが、自身の足で赴き、写真におさめて来ました。





その際の日記も機会を見て、
写真と共に追々…
綴らせて頂きたいと思っています。


―  紫苑  ―







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