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日本の学校から逃げたお話

10年前の春。私は引越しの準備に追われていた。4月から、パキスタンに引っ越すことが決まっていたのだ。先に単身赴任していた父親と家族一緒に暮らすために。

私は当時中学2年生。4月からは受験生になる学年だった。周りからは正直、このタイミングでの引っ越しに理解をしてもらえなかった。

当時の私は現実逃避をしたい思いが強かった。現実、とは中学校生活のことだ。
私は家から歩いて15分ほどの地元の公立中学校に通っていた。

友達との仲はよかったし、行事はとても楽しかった。
でも何故か、クラスの雰囲気が苦手だった。授業を面白い/勉強が好きと言えない空気。何か授業中に教室の宙を物が飛び交うことが是とされる空気。
普通の公立中学校では、よくある光景なのかもしれない。でも、当時の私はうまくやり過ごす術を身につけていなかった。それどころか、クラス替えを経て、よりクラスの雰囲気についていけなくなることに怯えていた。そんな恐怖もあり、自分のペースで勉強できるところに行きたかったのだ。

私は過去別の国で、海外の日本人学校に通っていた。そこでは勉強が楽しかった記憶しかない。だから、この「クラスの雰囲気」から逃げる手段として引っ越しが思い付いた。安易に海外の日本人学校に行けば、楽しく学習できるだろうと思い込んでいた。もちろん、親にはそんなこといえなかった。周りの友達にもいえなかった。だから、「海外で家族で生活したい。」これを一貫して主張していた。

2011年4月。パキスタンに引っ越しをした。
庭にはブーゲンビリアに、ライチ。朝はアザーンで目が覚め、夕方の停電とともに日が暮れる。そんな日々を過ごしていた。

さて、海外での学校生活。
当時、中3は私含め3人だった。なので3人に対して先生1人で授業が行われていた。もちろん、寝ている子や授業を聞いていない子など一人もいない。先生もそれぞれの学力や状況をよく把握できるなんと贅沢な環境だろう。

でも、私は勉強が嫌いになった。こんな恵まれた環境なのに。勉強したくて引っ越したのに。
その理由は単純だった。勉強しても成績が上がらないからだ。私は常に、学年最下位だったのだ。2人はずばぬけて優秀だった。だから、授業は私の理解度に合わせて進む。他の2人はわかっているのに、私が間違えると私1人のために解説が行われるのだ。その場にいるのが申し訳なかった。

正直、今まで、勉強は得意という自負はあった。でも転校先の2人は飛び抜けて頭が良かった(のだと思う)。今になって、彼らの活躍は誇らしいが、当時は一緒にいるだけでしんどいこともあった。

受験生の期間、勉強に対して不安を覚えてしまうと、それだけが世界のように見えてしまっていた。こんな環境なら、「日本の学校である程度勉強できる位置で自尊心を保っていた方が良かった。」とも思った。

先生に頼み込んで、授業外の時間に1人補修をしてもらったりもした。それでも授業についていくのは必死だった。

ただ、2人のおかげで、1年間油断することなく勉強できた。その甲斐あってか、第一志望であった高校にも受かった。あれだけ私に付き合ってくれた、当時の環境に感謝をしたい。

自分が日本の学校から逃げた先で待ち構えていたのは、当時の自分にとってかなりハードな環境だった。得意だったことが、得意じゃなくなり、自分を否定されたような感覚だった。また、この環境を想像していなかったから、受け入れがたかった。我ながら、安易な考えだったなと思う

逃げても、その先で何が待ち構えているかわからない。
新たな環境に行くと言うことはそれなりの変化を伴い、覚悟が必要である。

今でも、他の世界が眩しく見えて、ついそこに足を踏み入れたくなる瞬間がある。でも、それは10年前の私と一緒だ。ただ、現実逃避をしたいだけなのかもしれない。ここじゃない場所では、また違う苦しみがあるのだろう。ちょっと想像できるようになった今は、この世界で、覚悟を決めてもう少し頑張ってみようかなとも思う。

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