広告の形すら、今変わろうとしている!?
pino(ピノ)/森永乳業さんのアカウントの記事におとといこの記事がアップされていました。
この記事を読んで、広告業界の隅っこで暮らしている僕はとても心がざわつきました。記事の内容は直接ご覧いただいた方がいいと思いますのでここでは細かい説明はせず、この記事を見て感じたことを書こうと思います。なぜ僕の心がざわついたか・・・です。
クオリティというものの定義が増える
まず前提としてこの記事(広告)は、いわゆる広告代理店がしかけたものかもしれません。それはそれとして別の話でわかった上で、あえて、森永乳業さんがこの広告を作ったとして話をします。この記事で展開されている内容はいわゆる「成果物」ではありません。途中過程をみせ、あえて(だと思いますが)企画段階の大ラフめいたものをみせ、裏側を見せてコンテンツ化しています。できあがったものではなく、できあがっていくものを見せている広告(記事)です。
一般的にいうクオリティは「成果物」に対してのクオリティですが、今回出来上がっていく過程を見せているわけで、そこで語るクオリティは成果物におけるそれとは大きく違います。もし、今回のようなコンテンツに対して「クオリティが低い」などという言葉を使うのならばそれは、非常に視野の狭い、狭義なクオリティであると言えるでしょう。
これは決して、クオリティの定義が変わるということではありません。クオリティの定義が増えると書いたのは、価値観が増える、多様化されていくという考え方になっていくのではないでしょうか。
広告すらコト消費
広告を「成果物」という単位ではなく、今回のような過程をコンテンツ化しているということは、仮に成果物が「モノ」であるならば、過程は「コト」です。広告自体がコト消費に向かっているということになります。コト消費のコンテンツとはつまり、先日「遅いインターネット」の読書感想文でも書きましたが、
コト消費というとなかなかイメージがぼんやりしますが、ユーザーに「自分の物語」を作ってもらうということへの手伝いをどうしますか?と考えれば少し具体的なイメージができるなと思いました。
つまり、自分の物語に近づくための要素がないとだめです。今回のコンテンツをみると、まさしくその設計がされてるように思います。自粛というものを乗り越えていくために・・・といういわば共感されやすい題材に向かってメッセージを投げかけるというやり方。これはまさしく、広告をコト消費へ持ち込み、ユーザー自身の話にしたということになるのではないでしょうか?
それに、このコンテンツ。「ピノ」の紹介がされていないのに、「ピノ」を伝えているというすごさもあります。
これからの広告制作はどうなる?
このやり方をされてしまうといわゆる「成果物」を軸にしている広告制作は見え方が変わってきます。もちろん、あちらからこちらになるというような話ではありませんし、感覚としては「増える」というイメージかと思いますが、立ち位置を明確にしないとジレンマに苛まれる可能性があります。
このタイプのコンテンツクオリティの真意を、根っこをきちんと整理できていないとこれからの広告制作、広告の企画というもののボタンの掛け違いがずっと続くように思えてなりません。・・という意味で寒気すらするのです。
整理すべきだと思いますし、考えを広げなければ淘汰の道が待っているように思います。
もし気に入ってもらえたら嬉しいです。情報の発信とコミュニケーションについていろんなチャレンジをしていきます。どうぞよろしくお願いします!