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【連載小説】私小説を書いてみた 2-3

前回のお話は…https://note.com/sev0504t/n/nc2af0f430314
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治療

 誰ともメールや電話をしなくなってから二週間が経った。陸には、病気でバンドもできないこと、治療費も必要でギターを売ったことの二つだけ伝えていた。ただそれ以降、特に誰からも連絡はなかった。

 本当に信頼できる人がいる人は幸せだと思った。
 人にはきっとそれぞれ盃みたいなものがあって、優しくできる人の数が限られているんだと思う。

 こぼれた水はどうなるかって。
 そりゃあ、きっと大地に帰るだろう。
 ずっとずっと、途方もない旅路の果てに大地へ帰るだろう。だから、できるだけ不純物がないほうがいいに決まってる。タバコのフィルターなんて最悪だ。人の感情も循環する。浄化しきれない鬱屈した感情だって、猜疑心だってそうだ。それは無償の愛情や耀かしい好奇心に混じって世の中を巡りめぐるんだ。そして僕らに留まらず、世界からも取り残された何かは世界を再び歪ませる。だから僕たちは罪深いのかもしれない。

 現実があまりに空想とかい離していると、もうひとつの確からしいものがリアルに浮き上がる。

 髪が全部なくなった。ただ真っ赤な夕陽を眺める自分がいる。空一面オレンジ色と朱色を混ぜて試し塗りしたようなその空色に吸い込まれ、内臓のすべての位置が互い違いな僕の身体。焼ける匂いと真綿で首を締めつけられるような息苦しさ。遠くから聴こえてくる歌はあの少女のものだろうか。
 意識ははっきりしていた。はらわたの痛みは鋭く、ますます空は明度と鮮度をあげる。一瞬、ハレーションのような刺激が光彩を穿ち、網膜に刺激が響いた。

 涙が流れた。

 涙は冷たく。頬ではなく目尻からそのまま垂直に流れ、耳を濡らす。

 やっと夢だと悟った。窓から漏れたわずかな光と肌寒い冷気を感じ、遠くからは消防車のサイレンの音がかすかに聞こえた気がした。見上げればいつもの暗い天井だ。

 頭には、怪我をしたときのようなガーゼをあて、白いネットを被って喫茶店のバイトに行く。オーナーに頭の怪我ということを告げ、厨房にまわることになった。オーナーは怪訝な顔をしていたが、こちらの希望を叶えてくれたことは、僕にとって大きな意味があった。まだ働き続けることができる。まだ世の中と繋がれると思った。

 治ったら、もっともっと自分の生き方を見つめようと思った。今までのなんとなく生きてきた自分が変われる。そんな根拠のない自信と決意を抱く。手の震えを掌におさめ、強く握り拳をつくった。

 お客の注文したホットコーヒーは、黒い表面に小刻みな波形を描いていたが、いつになく見映えはよかった。
 
 「お疲れ様」
 「お疲れ様です。湊さん、頭どうしたんですか」
 帰り際にスタッフルームで大学生の山本に話しかけられた。

 「ああ、ちょっとケガしちゃってね。別の仕事で。あとが残るらしいからしばらくはこんな感じで働かないといけないんだ」

 「大変すね」
 「今日も病院で診察あってな。お疲れ」
 人とかかわることに前より数倍のエネルギーを要するような気がした。僕にとっての人との距離は物理的にも心理的にも遠ざかり、トゲを持つ動物が互いを避けるような、磁極の違うものが決して交わらないような、そんな世界が出来上がってきている。決して許してはいけない領域が、信じられないくらいに明瞭に感じられ、人との確かな距離感を守っている。気がつけば僕は頭を押さえていた。

 自転車で向かった皮膚科に着くと、二度驚いた。
 今月で、クリニックが終わること、そして今日が最後の診察になることだ。

 つづく

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