超ショートショート「スクロール」

 仕事が終わり、帰路に就く。最寄り駅の改札を抜けて、深夜の住宅街をひとりスマホを見ながら歩く。今日は残業し過ぎてしまった。

 スマホのスクリーンの上に水滴が一つぽとりと落ちた。その数は少しずつ増えていく。雨が降り出したのだと気がついた。そうか、今日は夜から雨だったな。いつもは折り畳み傘をカバンに入れているが、今日は家に置き忘れてしまったようだ。急いで帰ろう。

 次第に雨が強くなり出した。慌てて走り出すが、家まではまだ距離がある。ふとスマホから顔を上げると、目の前に電話ボックスが見えた。

 「あれ?こんなところに電話ボックスなんてあったっけ?」

 普段、通勤の往復で使っている道だが、道中は携帯ばかり見ているので、あまり見てなかったんだな。ちょうど良い。ちょっとだけ雨宿りしていくか。

 今時珍しい電話ボックス。まだ使っている人がいるのか。緑色の大きな胴体には10円を入れる口と、テレホンカードを入れる口がある。どちらも僕は持っていない。最近は完全キャシュレスだ。電子マネー対応したら使う人もいるのでは?と思ったが、そういう人はスマホ持っているからそもそも使わないか、なんて思いを巡らす。

 一通り電話ボックスを観察した後、スマホ画面に目を落とす。自分で言うのもなんだが、完全にスマホ依存症だ。とにかく移動時間、トイレに行く途中、隙間の時間があればポケットからスマホを出し、親指でフリックして画面のロックを外す。別にゲームをしているわけではない。ニュースサイトを巡回して、ただただ活字を眺めるのである。

 目に止まった記事を開いて、親指でスクロールをすると、少しの浮遊感とともに、突然視界が暗くなった。

 「うわっ!?」

 四方ガラス張りの電話ボックスがまるでエレベーターのように下に下がって、ガラスの外は土でいっぱいになる。天井から20cmくらい、まだ地上が見えるが、どう見ても自分のいるこの空間が地面に埋まっている。

 「えっ!?なにっ?何これ」

 天井を見ながら、無意識に親指でスマホ画面をスクロールすると、また沈んだ。画面を下にスクロールするのに合わせて空間が下に下がっているのか。意味がわからない。「え、何これ?」しか語彙が出てこない。

 とはいえ、スクロールするとそれに合わせて挙動するという事実は、僕を冷静にさせてくれた。未知の体験をしても、何かしら法則性を感じることができれば人は冷静になれるのか。

 今度は意図的にスクロールを進める。どんどん下へ下へ進んでいく。すると足元が少し明るくなって、やがて視界が開けた。ここは海の中か?やや光が通る水の中にいるようだ。おしゃれな水族館の巨大水槽の中に入った気分だ。左側のガラス面には、魚が群れをなして泳いでいる。よく見ると、鱗の部分がフォトジェニックな風景写真になっていて、魚群が動くと何千という写真が鮮やかに流れていく。正直、見惚れてしまった。同時に顔がにやける。まじで意味がわからない。

 さらに下に進むと一転して、今度は森を眼下に夕暮れの空を飛んでいるような景色が見えてきた。オレンジ色の空と、黒くなっていく森林のコントラストが良い。そしてすごく広い。どの面を見ても地平の果てが見えない。所々で山火事が起きているのか、炎と煙が見える。だんだんスクロールに合わせて地上に近づき、木の葉に包まれて暗くなった。一瞬、葉っぱの形が見えたが、アルファベットや日本語、中国語など、色んな言語の文字のような形をした葉っぱだった。

 それから何度か景色が移り変わっていった。ローマの旧市街のような石造りの建物、その中央にはなぜかサムズアップした手を模したような噴水台。そしてそこから吹き出す赤いハート型の風船。ただただ、ひたすらゴミの掃き溜めとなっている広大な空間。ここでも所々ボヤが起きている。あとは、樹形図のように無数の枝を持った電線と、それにぶら下がる何万何千万という電球。電球はついたり消えたりチカチカしていて、正直眩しいがとても綺麗だった。

 電話ボックスの外の景色に目を奪われていたが、ふとスマホ画面に目を落とすと、スクロールしていた画面の右下に「↑」がついた丸いボタンが現れた。半ば何が起こるか予想しながら、僕は親指でそのボタンを押した。

 瞬間、僕は突然重力に押しつぶされるような上方向への加速を感じ、視界が一気に下方へ流れていく。気がつくと僕はもとの地上へ帰ってきていた。雨は小雨になっていたので、電話ボックスから出て、家に帰る事にした。

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