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背景、大好きなあなた達と未来に怯える私へ

この半年から1年の間、ずっと激動の時間を過ごしてきたと思う。
私のnoteを読んでいる読者は知る通り、私はアイドルのオタクだ。かつて「ジャニーズ事務所」と呼ばれていたその事務所に所属し、歌ったり踊ったり、ドラマや映画に出演したり、バラエティで笑いを取ったり、そんな事をしているアイドル達を私はある時から応援し続けている。応援するアイドルの数は増え続ける一方で、減少する気配を見せない。
何も彼らに限らず、他の事務所に所属するタレントの事も私は何人か応援している。本腰を入れて応援していなくても、何となく好きな人も沢山居る。
私は彼ら彼女らと共に時間を過ごし、時にはお金を出してエンターテインメントを届けて貰い、元気づけられたり幸せにして貰ったりした。同時に、個人的に見たくないものや知りたくない事も沢山見てきた。スキャンダル、熱愛報道、炎上、流出、誹謗中傷、メンバーの脱退。その最たるものが故・ジャニー喜多川氏の性加害疑惑問題とそれに伴うジャニーズ事務所の廃業な訳だけれども。
私はその度に傷ついたり泣いたり怒ったり、落ち込んだり嘆いたりする。
「推しに出会わなければこんな思いをせずに済んだのに!」
と思う。大好きだった曲が聞けなくなる事もあるし、憎しみが募り、我慢できずに罵詈雑言をTwitterに書き込んでしまったりもする。そして大抵後で凄く後悔する。そしてその度に江戸川コナンとかいう何処ぞの少年名探偵が言う通り、「言葉は刃物である」という事実をまざまざと実感する。私は彼らアイドルにとって非常に迷惑なオタクである。
勿論1度口から出した言葉は絶対になかった事にはならないし、本人に対して詫びる事もできない。
そうして色々と反省していた時、まとまった時間ができた。
大学を出て電車に乗って暫くした時、乗っていた電車が人身事故で止まってしまったのである。電車の運転再開予定は何十分も後で、私は3時間以上かけて遠回りで帰宅する事を余儀なくされた。
なので、その時間を利用して考えてみた。どうして私は大好きな推しに対して我慢できないほど腹を立ててしまうのか。そして、どうすれば過ちを繰り返さずに済むのかを。

まず大前提として、公開されたSNSで推しへの悪口を書き込む事は間違いなく良くない事だ。そんな事は火を見るよりも明らかな事だ。
では何故私は我慢できずに推しの悪口を言ってしまうのか。
これは私が今までの傾向を思い返して思った事なのだけれど、私はイレギュラーな事が起こった時や何かが変化していく時、他の人達に推しが叩かれている時に一緒になって悪口を言ってしまう事が多い様に思う。
恐らく私は未来が怖いのだ。私は変化が怖い。時間は流れていくし、変わらないものなど存在しない。それでも私は変化を死ぬほど恐れていて、何かが変化しようとする度に抗おうとしてしまうのだと思う。
私は気持ちも不安定な事が多く、落ち込んでしまう事も多い。
そんな時いつも私を引っ張ってくれるのは大好きな推し達だった。私の推しは明るく前向きな性格の人が多い。そしてあまり何年も先の未来を見据えず、今を全力で生きている人が多い。
その刹那の輝きは私にはあまりにも眩しい。私はそんな彼らに憧れて「刹那」になった。
勿論彼らは明るいばかりの能天気バカではない。自身の不遇な扱いに泣いた日も、大切な仲間を失った日もある。挫折も沢山経験した。何度だって諦めそうになった。それでも彼らは諦めずに今もステージの上に立っている。多才なのに何処か不器用な彼ら。彼らは揃いも揃ってセンスが独特で、いつも突拍子もないアイデアや表現を見せてくれる。
いつだって明るく笑って手を引いてくれる。そんな彼らに何度も救われてきた。
だからかはわからないけれど、多分私は推しに自分の理想像を押し付けて依存してしまう事が多く、そこからずれると腹が立ったりしてしまうのだろう。そこからずれていく事を「悪い方向への変化」だと主観で勝手に判断して。多分、「自分の思った通りにならない」からそう思うのだと思う。
でも、諸行無常とはよく言ったもので変化しないものなど世の中には存在しないのだ。そして全ていつかは絶対に終わるものなのだ。花はいつか枯れる。木だっていつかは枯れる。ミジンコもネズミも人間も、数百年の時を生きる貝も。全ての生き物はいつかは必ず死んでしまう。勿論1000年以上の時を生き続けているエルフのフリーレンだって。全てのものがいつかは終わる。その時期が早いか遅いかというだけで。
それはアイドルだって同じだ。その時期がいつかはわからないというだけで、大抵のアイドルグループはいつか解散するし、どんなアイドルもいつかはアイドルという仕事を辞めてしまう。勿論「死ぬまで現役」を貫く人も居るかもしれないけれど。今はまだそんな人が現れていないか私が存在を知らないだけで。
これは私の推測に過ぎないのだけれども、アイドルという生き物はそれでもなるべくファンを悲しませない様に動いているのだと思う。これは感情論の話ではない。ファンへの情があろうがなかろうがファンが居なかったら収入が得られず生活が立ち行かなくなる。多くのサービス業と同様に、アイドルとてそれなりにファンに気を遣うものだと私は思う。
しかしながら、アイドルだって人間だ。勿論触れないけれど触ったら温かいし、勿論実行したらいけないけれどナイフで刺したら死ぬ。アイドルにだって心はあって、嫌な事を言われれば傷つくし、嬉しい事を言われたら嬉しくなる筈だ。だからきっと少しくらいはファンに情もあるだろうし感謝もしているのではないかと思う。所属グループへの思い入れもあるだろうし、グループに関係なく叶えたい夢だってあるかもしれない。勿論そうではない人も居るだろうが、そういった人は恐らく少数だ。そして彼ら彼女らのファンは何万人も居て、彼ら彼女ら全員と意見を擦り合わせる事は物理的に不可能だ。
恐らく変化に怯えるファンは私以外にも大勢居る。だからアイドルはファンを悲しませない為になるべく変化しない様にしてくれているのだと思う。だから「大きく変化しない」為にマイナーチェンジをしたり、仮に大きな変化が発生してしまう事があってもファンをなるべく悲しませない様にフォローを入れる様にするのだと思う。 自分達に起こる変化がファンの許容量を超えない様に。
だから、
「どんなに変化しても大丈夫なんだ」
と思えないのは、もしかするとアイドルの事を信じられていないからなのではないかと思う。これはあくまでも私の場合だけれども。
確かに何度も熱愛報道を出したりプライベートのアカウントや音声を流出させてしまったり、不祥事を起こしたり逮捕されたり、そういった世間の人達が
「アイドルはこういう事はしちゃダメだよね」
と思う様な、所謂「暗黙のルール」を破る人が信頼されないのは仕方がない側面もあるのではないかと思う。
そもそも不祥事を起こす様な人物というのはアイドル以前に人間としてどうなのだろう。犯罪紛いの事を起こしてしまうのは論外として、例えば複数人の異性と交際しないとか不倫をしないとか、ゴミをゴミ箱以外の場所に捨てないとか、そういった常識の範囲内の最低限の倫理観は持っていて欲しいと願っている。別に聖人君子であれとは思わないけれども。
それでもやっぱり1つも間違いを犯さない人は居ないのだ。正直私の推しには色んな人が居る。不祥事を起こした推し、失言で炎上した推し、幾度も熱愛報道を出した推し、交際相手とキスをしていたところを週刊誌に撮られた挙句二股を報じられた推し、生放送のラジオで放送禁止用語を口走ってしまった推し、かつての恋人とのSNSでのやり取りが流出した推し、プライベートのInstagramのアカウントが流出した推し。私が知らないだけで、彼らは他にも色々な事を起こしている筈だ。彼らのそんな側面を知る度、私は彼らの浅慮に失望し、幻滅する。
では、私はどうなのか。私は彼らに幻滅できるほど間違いを犯さず生きてきたのか。答えはノーだ。大っぴらに言える話ではないが私だって炎上した事はあるし、失言が原因でフォロワーだった人にブロックされた事もある。酷い事を言って友達を傷つけたり、母親と取っ組み合いの喧嘩をしたり、祖母に腹を立てて手を上げてしまう事もある。学校の授業中に居眠りをする事だってあるし、授業中にTwitterを見たりゲームをしていた事だってある。私は決して聖人君子と呼ばれる様な人間ではない。
ヨハネによる福音書には、
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。(Whichever one of you has committed no sin may throw the first stone at her.)」
という文章が登場する。イエスにこの言葉をかけられた人々は誰も石を投げる事ができずに立ち去ったという。自戒を込めて繰り返すが、間違えない人など誰も居ない。
だから、間違えた事がない(様に見える)人の「間違えた事がない」という特徴は勿論褒められるべきところではあるけれど必要以上に祀り上げられるべきではないし、間違えた事を反省した人が間違えない様に前に進もうとしてくれているのなら、それは信じる価値を持つと思う。
だから、大好きな人達の言う
「大丈夫だよ、変わっていくところもあるけど芯は変わらないよ」
「だから信じて」
「未来を楽しみにしてて」
という言葉はなるべく信じたいと思う。もしその変化が自分の許容量を超えてしまうのなら、多分そこが潮時だ。そうなったらきっと私が彼ら彼女らから離れるべき合図なのだ。
つまり、アイドル達は究極的に言えば元気で活動してくれていたらそれで十分なのだ。勿論理想像から大幅に外れて欲しくはないという身勝手な願望もあるし、逮捕されようものならそれ以上応援する事は難しいけれども。

こんな事をつらつらと書いてきたが、勿論綺麗事を言っている自覚はある。これがなかなか実行できないから私は何ヶ月も大好きな人達の曲が聞けなくなってしまうし、モヤモヤしたり不安になったりする。
私の敬愛する人物の1人で、NEWSのメンバーのシゲこと加藤シゲアキの愛読書の1つにエーリッヒ・フロムの「愛するということ」がある。私はある時彼に触発され、「愛するということ」を読んでみた。哲学書という事もあり内容は大変難しく、私は読んだ事が殆ど理解できなかった。
ただ、今でも忘れられない一節がある。それは、
「信念は、どんな友情や愛にも欠かせない特質である。他人を『信じる』ことは、その人の基本的な態度や人格の核心部分や愛が、信頼に値し、変化しないものだと確信することである。(原文ママ)」
というものだ。当時私は自分はこれを実行できていると思っていた。しかしながらいざ振り返ってみると私はこれを全く実行できてなどいない。これはある種当たり前の事なのだが、信じる事も愛する事も簡単そうに見えて難しく、根気が必要なものなのだろう。
そして、この本では、愛することは状態ではなく技術であり、修練が必要であるとも説いている。「愛は問いである」とも。かつて世界に馴染めず心のうちに深い孤独と不満を抱えていた加藤は、不器用にも見えるが誠実な自身の生き方をこの本に肯定され、背中を押して貰った気がしたという。

話を戻そう。
残念ながら私は根気のある人間ではないと思う。
勿論フロムの哲学を全部鵜呑みにするのもそれはそれでおかしな話ではあるのだけれども、彼の哲学を当てはめるのであれば私は彼らを愛しているとはとても言い難いし、恐らく彼らを愛せる場所にすら立てていない。
ただ、譲れないと思う事もある。それは、私は彼らの事が好きだという事だ。
私は彼らや彼らの届けてくれる表現が大好きだし、彼らの届けてくれる歌や言葉に何度も心を救って貰った事がある。
少し自分語りを挟ませて欲しい。
私は当時大学3年生だった昨年の夏と今年の冬、留年の危機に直面した。結果的にはそうならず私は大学4年生になった。勿論後に不利になる事も多いだろうけれど、留年は取り返しのつかない失敗ではない事はわかる。留年したとて死ぬ訳ではない。ただ、当時の私は留年は取り返しのつかない失敗の様な気がしていたし、正直今もそんな気がしている。全てがどうでも良くなってしまった私はある夏の日に死ぬ事にした。今思えば、死ぬ勇気なんてなかったのだろうと思うけれども。
そんな時私を引き留めたのはNEWSだった。昨年デビュー20周年を迎えた彼らは、しかしながら10年後、30周年の事まで見据えていたのである。
「ああ、私は3人と30周年を祝わなければならないんだ」
そう思った私は死ぬのを取りやめにした。
正直に言うと私は30歳までに、できれば27歳で死にたいと思っていた。ただ残念ながらNEWSがデビュー30周年を迎える時私は31歳になっている。私はその事実にがっくりした。
「とりあえず25周年までは生きよう」
と私は思った。
勿論その後辛い出来事も沢山起こってその度に死にたいと思ってしまったけれど、私はずっと行きたいと思っていたNEWSのライブに行く事ができ、そのうえ東京ドーム公演にまで参加する事ができた。とんでもない倍率をすり抜けてSixTONESの東京ドーム公演にも行けた。あの時死んでいたら絶対に経験できなかった事だ。
私は
「推しのお陰で死なずに済んだ」
をリアルに経験した事がある人間の1人だ。勿論この先辛い事も沢山起こるだろうけれども、きっと楽しい事も待っている。それら全ての可能性を自分の一時的な気の迷いで閉ざさずに済んだ。感謝だってあるし恩も感じている。
私は何万人、何十万人のファンの中の1人でしかなく、とてつもなくちっぽけな存在だ。そして時には自分勝手に彼らを罵倒し傷つけてしまう、極めて自分勝手なオタクだ。そんな私が彼らに返せるものなどきっと無に等しい。それでも、そんな彼らに何かできればと思うのだ。CDやグッズに対価を支払い、時にはファンレターを出したりして。彼らがほんの一瞬でも
「アイドルを続けていて良かった」
と思える様に。この思いすら烏滸がましいただの自己満足なのだけれども。

まあ簡潔に言うとなるべくネガティブなツイートは控えたいと思った次第な訳だ。きっと我慢できなくてまたツイートしてしまうのだけれども。
私はいつでも時間や心に余裕がある訳ではなく、寧ろ余裕がない時の方が圧倒的に多い訳だけれども、それでも時間と心に余裕がある日は自己分析などをして、自分という獣をコントロールする手段を増やしておきたいと思う。自分の内なる獣の存在やその獣が時折自身や大切な人達に牙を剥く事は自分が一番よくわかっていて、その獣を飼いならせるのは自分だけなのだから。

とまあそんな事を考えていた時、NEWSのメンバーであるまっすーこと増田貴久が翌日の昼にインスタライブを行うという告知を行った。
その前からNEWSの公式TwitterやメンバーのInstagramで新しいプロジェクトの始まりを予感させる画像は幾つか投稿されていたのだが、頻繁にインスタライブを行う訳ではない彼の告知に私の心臓は縮み上がった。
「NEWSを解散するからその前に盛大にパーティーをする」
とでも言われてしまうのではないかと私は怯えに怯えた(結果的には全くそんな事はなく、『親機』ことホストの増田、彼が呼び集めたNEWSのメンバー(慶ちゃんこと小山慶一郎、加藤シゲアキ)、メンバーではないものの加藤の親友である勝地涼を何故か加えた4人によって新しいアルバム『JAPANEWS』の発売と同名を冠したコンサートツアーの開催、今年初旬にデビュー20周年を記念して開催されたスペシャル・ライブイベント『NEWS大集会』の開催、そして公式YouTubeチャンネルの開設が多量のトラブルを伴いながら非常に賑やかに告知された)。
長い時間をかけて自己反省を行っていたにも関わらず、私はまたしても彼の事を信頼する事ができなかったという訳だ。大好きな人を信頼できる様になるまでの道のりは長い。

今年から、NEWSのコンサートツアーの日程が増える代わりに1日1公演になった。去年までは日程が少ない代わりに1日2公演行われる日もあった。そして新しくできたアリーナを会場として使う事になった。
恐らく3人の体力的にあまりにもハードな公演を1日の間に2回こなすのは厳しいのだろう。推定10年ほど前から彼らの見た目に大きな変化は見られない様に思うのだけれども、いくらトレーニングをし体力づくりに精を出したとて歳を重ねるごとに体力は落ちていく。当たり前の事だ。
私はそんな当たり前の事実に酷く落ち込んでしまった。そして、今まで使った事のない会場を箱として与えられた事を彼らの所属事務所から期待されていないのではないかと感じてすっかりしょげてしまった。特に収容人数を調べた訳でもないのに。
もう一度繰り返すが私は未来が怖い。この先やってくる未来が全て悪い事の様に思えてしまう。過去の楽しかった思い出を反芻する度、未来も過去と同じくらい楽しいだろうかと不安になって落ち込んでしまう。
そして私は変わっていく事が怖い。変化が必ずしも良い事であるとは限らない事を知っているからだ。
きっと私は終わりが怖いのだ。未来には必ず終わりがあり、変化は終わりへの過程の様に思えるから。
私はいつまでNEWSの旅を見守り続ける事ができるのだろう。彼らに限らず私はいつまで大好きな人達の届けてくれるエンターテインメントを受け取り続ける事ができるのだろう。そして私の未来は一体どうなってしまうのだろう。私はそれについて考える事に怯えている。
ただ、私は彼らともう少しの間は一緒に旅ができそうな予感がするのだ。
何故なら、聡明で多才な彼らならきっともっと楽に幸せになれる道も選べた筈だし、しんどいと思った時点で別の道に軌道修正できる可能性も提示されていた筈だからだ。実際私の推しの中では事務所を辞めようとした人も、辞めてしまった(事務所に謝罪してすぐ戻ってきたけれども)人も居る。
それでも彼らは「アイドルで居続ける」未来を選んだ。そして今でもステージに立ち続けている。きっとその姿こそが、どんな言葉よりも明快な答えだ。

聡明で多才で華やかな世界を生きているけれど、何処か不器用な彼ら。
きっと私もあなたも、要領良く生きるのはとても下手だと思うから。
だから私かあなたが飽きるまで、この眩しく光る刹那を、共に。


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