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Youはどうして海外に? Vol. 2 幸長 加奈子さん


幸長 加奈子さん

Youはどうして18歳で海外に?早い・・・

インタビューをさせてもらった幸長加奈子さんに初めて会ったのは、5~6年前のバンコクだったと記憶しています。話し方もやわらかく、スレンダーな和風美人の印象でした。それが、今ではもうすぐ3歳になる男の子のお母さん。妻として、母として、そして事業化として3足のわらじを履いて、コロナ禍のタイで逞しく頑張っていました。

幸長さんは、兵庫県の姫路生まれで、姫路育ち。日本を離れてタイに行く、18歳までそこで育ちました。 え?18歳でもうタイに行ったの?はい。大学に入って、親にお金を払ってもらったとしても、絶対卒業しないだろうなと思っていました。大学で学ぶ事に情熱はないし、想いもないし、無理だなと思って、授業料の数百万円がもったいないので、大学進学する予定だったのをやめて、長年の憧れだった海外生活をしたいというのに目標を変えました。大学に行くなら、海外に行きたいと親に言いました。父は大賛成、母は心配って感じで・・・でも、最終的には賛成してくれました。

旅行や短期留学を経験する中で、いつかはしっかりとどこかの国に住みたいと思っていました。

父が海外旅行が好きで、私が初めて海外に行ったのは、幼稚園の年長さんの頃でした。
たしか、家族旅行で、香港に連れて行ってもらいました。父が料理が好きで、アジアの料理はスパイスが効いてたりとかするので、父の料理研究を兼ねて、中国、韓国と東アジアを転々と連れて行ってもらいました。

父がアジア志向だったので、私は、小学校5年生の頃には、父が行かない欧米諸国にも行ってみたいという想いがあって、姫路市の交換留学プログラムで、ニュージーランドに行けますよというプログラムを見て、5年生の時には叶わなかったのですが、6年の時には初めて一人でホームステイしました。とても楽しかったです。

その後も、こういう短期ホームステイプログラムを見つけては親にお願いして行かせてもらっていましたが、短期なのがジレンマで、その土地をわかりきれないうちに帰国になってしまうんですよね、そして、いつかは、どこかの国に住んでその国の言葉、文化を学びたいと思うようになりました

タイに決めたのは、お金がなくても悲観的じゃない、そこに住む人の底抜けの明るさと温かさでした。

どこに行こうか考える時に、父の一言がありましたね。それまで父と一緒に、東アジアは何度か行った事があり、イメージが沸いてたので、どうせ行くならまったく知らない国がいいなと思っていたところ、父が東南アジアを薦めてくれたんです。

実は、東南アジアは、私には全く想定外で、特にタイは、当時テレビで人気だった「うるるん滞在記」を見ていたので、山とか、像とか、そんなイメージしかなかったんですよね、でも、父がバンコクは町としてかなり発展してるし、一度見ておいでと言ってくれたんです。
どうせ行くならとシンガポールとタイを予定しました。シンガポールは、みんな忙しそうで、私が住みたいと思うのと少し違っていました。それに比べて、私が訪ねた20年くらい前のバンコクは、デパートもBTSもあったけど、お金を持つ人と、持たない人の差が激しくて驚きました。

しかし、お金なくても幸せそうで、この国の人たちの底抜けの明るさと温かさにひかれました。
お金がなくても悲観的じゃない、そんなタイ人をみて、まずはこの国に1年くらい住んでみようと思いました。

仕事をしながら学ぶ、それが私の好きなやり方です。

まずは、大学付属の語学学校に入る事を決めて、半年間の語学学校が終わってから、大学の聴講生になってみたのですが、1か月だけ行ってやめました。学生したくてタイに来たんじゃないと思ったんです。

タイに来てから2回だけ日本に帰ろうと思ったことはあるのですが、その時だけで、今では、ここが、私の生きる場所だなと思っているんです。
現在の仕事は4種類あって、ひとつは自動車部品の製造業 二つ目はレジャー事業、三つ目はタイと日本の間のコンサルティング事業、そして4つ目は、最近始めた、ダイビングショップがあるタイ南部のラヨーンというところで獲れるシーフードをバンコクで販売するECサイトを立ち上げたところです。

需要があって、それが出来る人が少なければ仕事は取れます。

語学学校を出てすぐフリーランスとして仕事を始めました。当時のタイには、大手の駐在員しかいなくて、ニーズに合わせて自由に動けるタイプの人が少なかったので、タイに仕事を依頼したい日本の会社さんに、重宝してもらいました。

だいたいの場合は、お客さんは日本にいて、タイでしたい事のリクエストが来るので、それに合わせて、会社を見つけたり、交渉したり、サンプルを作ったり、そして日本側でOKが出たら製造して日本に送ったりと、タイに子会社作るまでもなくて、現地で動いてくれる日本人を探している会社が多かったんです。そういう時期でした。

フリーランスの限界と、それをどのように打開し、展開していくかのチャンスは、ふるさと繋がりから。

しばらくすると、フリーランスの限界を感じるようになりました。もっと自分をステップアップするためと、自分の可能性を広げるために、もう少し勉強したいと思うようになっていました。

その時に、私のふるさとの姫で、タイで製造業を立ち上げたい会社があり、社長から現地の通訳として助けてくれないかと言われ、即、引き受けました。通訳をするという事は、社長の右腕となるという事でもあり、車の部品に関する業界用語や、製造業の中身のことや、お金の事や、法律の事など、知らない事が多かったのですが、ひとつ、ひとつ、学ませて頂きました。おかげで、自分で会社を作っているのと同じような経験をさせてもらう事が出来ました。

ロボットが物を作るのが製造業と思っていましたけど、製造業は、人のマネージメントこそが、肝なんだなと実感する事が出来て、その会社には通算で3年半社員としてお世話になる事になりました。

チャンスの神様が来たら、迷いなく手を伸ばすべし。但し、不義理はするな!

実は、その会社でお世話になっている間に、今の会社を作るきっかけになった大阪の合弁会社と出会う事になるんです。

その合弁会社から、タイで自分のところの部品の製造をしてくれるOEM先を探して欲しいというのがリクエストがだったんですが、自分の経験から、OEMより、自分のところで資本を投資して作った方がメリット大きいと考えてそういう提案をしたら、結果として、自社工場を作るというプロジェクトが進む事になり、提案した私もそのプロジェクトを手伝う事になったんです。いよいよ、実行という時になって、大阪の会社から、私も自分の資本を入れて、さらにその会社の代表にならないかというお誘いが来たんですね。もちろん、当時、自分の席を置いていた姫路の会社の代表に相談したら、頑張れという答えが返って来て、当時は、まだ25歳で、かなり無茶な事だったと思いますし、今でもそう思ってます。

良い仕事と良い人脈が自分を成長させてくれます。

現在の私の会社の関連会社でもある大阪の会社の会長が、人を育てる能力に長けている方で、その会社自体が70年くらいの歴史のある会社で、しかも、一部上場会社の傘下にある会社なのに、私でいいんですか?と思っていました。

私に決めた理由を後で教えてもらいました。
当時、工場をどこにするかという話でふたつ選択肢があって、ひとつは私が元お世話になっていた会社の隣の敷地で、場所は辺鄙なので土地は安い、もうひとつは便利でインフラ設備もしっかりしている工業団地だったんです。
直前まで、辺鄙な方の場所で、ほぼ決まっていたんですけど、土地の購入価格は安いけど、場所が辺鄙なので、製造業として大切な人の採用できないという問題に気付いていて、そんなリスクをわかっていながら何も言わないのは良くないと。工場を一旦建ててしまったら引っ越しは難しいのもわかっていましたし。でもお世話になった姫路繋がりの会社は、自分の土地を買ってもらった方が喜ぶだろし、でも、先に見えるリスクを言わないでおかないわけにも行かないし。悩みましたが、やはり先に、姫路繋がりの会社の社長に仁義を通して、新しい会社の会長にその説明をしたんです。

更に、私からの提案として、まずはレンタル工場から始めて、その契約が終わるまでにいろいろと調べて、そこから土地を買って工場を建てる、それが賢明だと伝えました。そんな話合いの中で、会長の判断として、上に立つものは濁りのない人ではなくてはならないという理由で私に決めてくれたと聞いて、すごく嬉しかったのを覚えています。

幸長さんがタイで作った雇用がここにあります。NEW-ERA INTERNATIONAL CO.,LTD. 10周年記念式典にて

コロナが事業に与える影響もありますが、タイに骨を埋める気持ちでいます。

コロナが発生してから、影響は大きくて、車の部品製造業の方は一時期売上が8割ダウンになりました。リゾート業は、お客様が減ってたり、増えたりで、プラスマイナスゼロという感じです。ここでは、時々ジンベエザメも出現するのだそうで、時間を見つけてお客様と一緒に海に潜るのが楽しいのだそうです。仕事と好きな事の両立ですね。

自らの宿泊付きダイビングショップがあるラヨーンの海

子供には子供の人生があると思っています。

子供が18歳になるまで15年ありますが、私としては、自分の好きな道で、好きなようにしてもらいたいと思っています。私の事業を継いでくれる事なんて全く考えていなくて、自分で選べる自由は渡してあげたいと思います。

筆者コメント

日本で産まれても、外国人と結婚して、その人のふるさとの国に生活の基盤を置き、その国に雇用を作り、そこを自分の居場所と思ってしっかりと生きていく、その生き方は日本人女性として尊敬します。
このインタビュー記事は、2021年にブログに掲載されたものです。


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