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サーカスアーティストは友だちだったり、違う惑星にいたり。

自分が初めて「サーカスアーティスト」という人種に出逢ったのは、2004年。その瞬間、忘れもしない。

新聞社の事業局で働くOLだった自分は、パンツスーツとパンプスで、緊張して顔が赤くなっていたと思う。なぜなら、フランスからきた10人以上の「サーカスアーティスト」たちとのミーティングの通訳をすることになっていたから、サーカスの人たちに出逢うという、爆発するほどの期待と、会議の通訳のダブルの緊張で、パンク寸前だったと思う。

会議室はこぎれいで、でも変わったところは、扉の外に森が広がっているということ。
眩しい緑のなか、リラックスして談笑する彼らが入ってきた…
…そして、自分は、それまでの世界がガラガラと音をたてて崩れ、完全に新しい人生が始まったことを感じたー。

その目、まなざし、
全員が、温かく、まっすぐで、初対面なのに私の緊張から守ろうとするように、包むような笑顔で1時間ずっと、いてくれた。
人生は変わった、これから完全に変わる。

そして、それは本当になった。

あっというまに10m上の住民に。

それからの自分は夢中で、現代サーカス公演を成功させるため、否、本当は皆に会いたくて会いたくて、毎日現場にいた。
彼らはフレンドリーで、いつも楽しく話しているけど、キューが響けば、あっという間に頭上10mまで、するすると登っていってしまう。
あるいは、バスキュールという、巨大シーソーみたいな道具で、やっぱり10mくらい空中に飛んでいく。
日常から宇宙に瞬間移動するひとたち、
そんな感じだった。

自分のスーツが心地悪かった。

当時の仕事場は、高い給料をもらって、高い服を買う、それが「良いこと」とか「常識」みたいだったし、洋服が大好きだったので、シミやシワがついた服なんて、もう着る気もしなかった(瀬戸内に来てからの私しか知らない人に言うと、目が点になったあと大笑いされる。冗談かと思われるみたい)。本当に!

けど、サーカスの人たちに出逢ってから、シミひとつ、シワひとつない服を毎日取り替えてる自分が何だか気恥ずかしくなって、もじもじするようになった。

また、彼らから、優しくしてもらえるけど、別の世界の住民と思われてる感じがして、悲しかった。

サーカスの人みたいになりたいー。

バカみたいな台詞だけど、本当に心から、そう思った。
身体いっぽんで生きてる彼らからみたら、そこに張り付いてる布なんて、大した意味はない。
もちろんおしゃれもするけど、心と身体が、錦なんだ。

日本のサーカスアーティストと話すときがきた。

そんなふうに、フランスのアーティストとの出逢いから始まった、自分のサーカス人生。
最初のうちは、日本に現代サーカスをやっている人とか、目指している人がいるかどうかすら、知らなかった。

2000年代には、「現代サーカス」という言葉すらほとんど日本で見ることはなかったと思うけど、
一部の、大道芸や、「エアリアル」(空中芸)、ジャグリングの世界で、ヨーロッパの現代サーカスを知り、興味を持ち始めていたアーティストが日本にいた、ということを知ったのは2007年くらいだったかー。
2008年だったかな、当時知り合った舞台制作者の奥村優子さんが「日本で現代サーカスの舞台作品を作ろうとしている人がいます。未知子さんに、ぜひ見に来てほしいです」と連絡をくれて見たのが、Cheekyさん(智春さん)が主宰する「カンパニーマン」だった。
あのとき、ああ、これは大道芸でもないし、伝統サーカスでもない、確かに新しいサーカスをつくろうとしているひとたちが、日本にもいた!と強く記憶に残った。

次に出逢ったのが、ジャグラーの目黒陽介さん。これもまた、奥村優子さんの紹介だった。
当時彼は、定員100人くらいの小さな劇場で、ジャグラーだけの舞台作品を作っていて、大きな舞台に出演はしていたものの、現代サーカスの演出などはしていなかった。
けど、無い無いづくしで八方塞がりでも、「創りたい」という執念と情熱を感じた。

それより前に影響を受けたのは金井圭介さん。彼は出逢ったころはまだフランス国立サーカス学校卒業後、プロとしてフランスで公演をしながらパートナーのるみさんとフランスに住んでいました。
金井さんはたくさんの人の人生に影響を与えていて、私も、前述の目黒陽介さんも「金井さんに人生変えられた…」と言っている人間でもあって(笑)。

目黒さんは、金井さんより遥かにずっと不器用なタイプで、目をギラギラさせながら生き残る野生動物のように創作を続けているように見えた。

日本のアーティストとの創作が、自分のミッションでは?

と、思ったのが、瀬戸内に移住したころ。2011年。
フランスで夢中になって取材して本を出版して、フランスで仕事をしようと思っていたくらいなので、日本のアーティストのことはほとんど知りませんでした。

次第にわかってきたのは、日本で多種目の人たちが混合で学んでいるのは群馬の沢入国際サーカス学校だけで、他は、「ジャグリング」「エアリアル」「ポールダンス」など、それぞれバラバラの分野で、バラバラの人脈で、あまり分野横断的な活動はなくー。
それぞれに違う文化や方法論があって、違う分野の人を集めることに、最初はずいぶん苦労した。

なんとなく記憶に強く残っているのは、ポールダンサーALK(あるく)さんを北海道のイベントにお呼びして初めて会った時。

ポールダンスというジャンルを遠くからしか知らなくて、いったいどんなことを話したらいいのか、共通言語はあるのか?
すごくセクシーな分野なのに(⇦ざっくり)、ALKさんがひときわピュアで透明感があって、そのギャップにどぎまぎしたことを覚えてる。

なんだかんだ、ほんまに「仲間」って思える、今。

そう、なんだかんだ。
瀬戸内に移住して12年目、ようやく常設の稽古場(体育館)を貸してくださる企業と出会えて、
10年間願い続け、信じ続けた、プロ・サーカスアーティストの瀬戸内移住が始まり、

もちろん!

いまは、初期の「日本のサーカスアーティストと共通言語はあるのか」という悩みは全くなく、人間同志の話を、普通にしています(当たり前やけど!)。
それが、自分もサーカスの人になったということかな?

それは、サーカスを知ることでもあり、プロであることであり、
人間同士であることでありー。
さらに、自分の立場でいえば、作品づくりもするけど、自分が選んだ役割である「サーカスプロデューサー」を極めることでもある。

サーカスプロデューサーは、サーカスの全てを知り尽くしていなければならないし、社会と繋がっていなければならない。
サーカスの必要不可欠な要件を把握して、一般社会のニーズとどう組み合わせるかを瞬時に判断し、クリエイティブに提案できなきゃいけないし、問題解決もできなきゃいけない。
お金もつくらなきゃいけない。

瀬戸内サーカスファクトリーの歴史は、自分が「サーカスプロデューサー」という役割を引き受けた歴史でもある。

創り手であり、プロデューサーであるために。

アーティストの皆と、また、外のプロデューサーたちと、いつも繋がって、話し合い、未来の現代サーカスを考える(未来サーカス?)。

立ち位置も、仕事の仕方も、十人十色、千人千色であっていいと思う。

現代サーカスの出逢いから、いま18年目か!
日本に「現代サーカス」という言葉を発する人が増え、ジャンルが認められつつあること、本当に嬉しいし、
日本のアーティストたちと、日々語り合える環境にあるなんて、2004年に想像すらしなかったこと。

自分にとっては、作品創りが最大のパッションであり、クリエイターであると同時に、このジャンルを本気で成長させる総合的な視野と行動力をもつプロデューサーでありたい、という2つのミッションが並走してる。

このジャンルが認められ、他の芸術ジャンルと同様に、現代サーカスのプロが、
プロらしくきちんと稼ぎ、生活し、創造し、認められていくことが、絶対に必要なことなので。
個人の利益ではない、それは「文化を育てる使命」だと思ってる。

死ぬまでに達成するか、さっぱりわかりませんが笑、
いまは、アーティストと、ほかの仲間と、笑いながら疾走してる感があるので。

いま知らないアーティストや、現代サーカスに関心のある他のプロデューサーとも、もっともっと対話していきたい、出逢っていきたいな!


瀬戸内サーカスファクトリーは現代サーカスという文化を育て日本から発信するため、アーティストをサポートし、スタッフを育てています。まだまだ若いジャンルなので、多くの方に知っていただくことが必要です。もし自分のnote記事を気に入っていただけたら、ぜひサポートをお願い申し上げます!