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雑談は、意味がないことに意味がある


雑談が苦手でした。


結論から言うと「苦手でしたが、今は好き」です。

教員としていそがしく働いていたとき。

雑談というものがどうにも受け入れられませんでした。

いそがしいときに職員室で雑談をもちかけられるのも、雑談をしている人を見るのも苦痛でした。

教員を辞めた理由の一つに「教員はコミュニケーションの量が多すぎてしんどい」というのがありました。


職員室にいると、どうしてもコミュニケーションから逃げられないのです。


職員室でのたわいもない会話が無意味に感じ、時間の無駄としか思えませんでした。

「あの無駄な会話からは、何も生まれない」と本気で思っていました。


「もっと人との関わりが少ない仕事に就けば、この煩わしいコミュニケーションから解放されるんじゃないか?」と思い、リモートワークが中心の個別塾に転職しました。


望み通り、ぼくの隣には誰もいなくなり、雑談をするということが日常から消えました。


それなのに、今は「雑談の力ってやべえ」と感じています。


なぜそうなったかというと、話したい時に話せて、聞きたい時に聞ける。その環境がもつ価値にようやく気づいたからです。

大事なことも、どうでもいいことも、気軽に話せるのがいい。


いつでも誰かと関わりを持つことができるという状態はとても安心です。


じぶんのとなりの席に、いつも誰かが座っている。

「誰かがいつもそばにいること」

それ自体が、安心を作っているのです。


リモートワークでは、同僚とは電話やZOOMでコミュニケーションをとることができます。

必要なことだけを話せるので、実に効率的です。

しかしZOOMを切ってしまえば、それでコミュニケーションは終了。もう隣には誰もいません。

そしてもう一度コミュニケーションを求めても、スマホやパソコンがなければだれとも関わることができません。

リアルでのコミュニケーションに比べて、リモートでのコミュニケーションは誰かに話しかけるハードルが圧倒的に高いのです。



効率的で、生産的であること。成長を求めること。

これらは現代社会において大事なことだと思います。

しかし、同じくらい安心も大切なのです。


勘違いしないでほしいのが、これは「もっと雑談をしなさい」と言っているわけではありません。

話すのが苦手な人だって当たり前にいるはずです。

ただ、隣に座っているだけでも、それがだれかに安心感をもたらしているのです。立派なコミュニケーションなのです。


雑談なんか無駄だと思っていた過去の自分。

たしかにあの時は、無駄な会話が仕事の効率を下げると感じていたかもしれません。しかし、その「無駄な会話」こそが心の支えになり、安心感をもたらしていました。


そりゃ誰かと同じ空間で一緒に働けば、無駄と思えるようなことなんかいくらでも生まれるさ。


雑談することだってあるだろう。


しかし、

「雑談には、意味がないことに意味がある。」

のです。


雑談でしか得られないものがある。それに気づいた今、あの時の自分に伝えたい。無駄だと思う時間こそが、心の安定や成長につながることもあるんだよ。

有益でなくてもいい、成長に繋がっていなくてもいいのです。


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