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児童書が読めなかった児童期

これは決して理解されることはないと思って今まで言ってなかったんですけど、いつかどこかで同じような感覚を持つひとに巡り会えることを願って書き残しておくと、
小さいころ、児童書がどうしても読めなかった。

「子どもが読みやすいように」配慮されているじゃないですか。文字を大きくしたり、ルビが丁寧に振られていたり、対象年齢に合わせて漢字を減らしたり。表紙の配色も子どもが好む鮮やかな色遣いだったり。

そういったものがどうしても苦しくてはずかしくて(当時は「舐められている」という感覚だった。決してそういうことではないのは今ならわかるのだけれど)、さっぱり近付くことができなかった。
私の通っていた小学校の図書室にはほぼ児童書しか置いてなくて、その中から選んで強制的に本を読まされる時間があまりにも苦しかった。

だから私は童話や有名な児童書のお話の多くを知らない。
大人になって「子ども用に配慮される前の翻訳本」をいくつか読んで、すばらしく素敵で大好きだし、他にも色々読みたいと思うから、作品そのものでなく「配慮」自体が私には苦しかった、ということ……。

ただ、文字を読むこと自体は大好きだったから、家に転がっていた親の実用書とか、何かの説明書とか、商品パッケージの小さな文字とかの「一切の遠慮がない文字列」をひたすら読んでいた。それが心地良かった。心の安定剤だった。

無機質で遠慮のないものが欲しかったのかもしれない。感情は、やさしさは痛い。すごく苦しかった。昔は。
子どもとして扱われることも。




掘り起こしシリーズ。今年の春のです。
今は、すてきな児童書をたくさん読みたい。

なにか感じていただけましたら、よろしければ。よろしくお願いいたします。