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忘れられたのは空間なのか、自分なのか

 元々ノスタルジックなものに心惹かれてはいたのだけど、完璧な嗜好として決定付けたのは 大学二年になったばかりの頃に、数十年前からほんの数年前まで使われていた旧キャンパスに実習で行ったときだ。

 そこは人里離れたうんと山の奥、山の上で、外部の人が一切接触できないような世界が広がっていて、寮があって、朽ちた小さな箱のような、硝子窓に蔦の絡まったプレハブ小屋、今も人が務めていてきちんと機能しているコンクリートの丈夫な建物に銀メッキのアルミサッシが嵌まった現代風の建物、そのすぐ奥に広がる大きな農場、すぐ目の前に迫る、石造りのアーチの下に放たれた小さな馬、近くて遠いような、木霊する動物の鳴き声――。

 なによりいちばん胸に迫ったのは、おそらく講義が行われていたであろうメインの建物で、ガラス張りの掲示板には数年前の日付が記された保健便りが貼り出され、他にも試験範囲の掲示物、学生の指名呼び出し……。そこには自分の全く知る由もない名前が並んでいて、確かにそこで人の営みが繰り返された痕跡がある中に、薄暗くて静かなそこに、確かに周りに友人はいたのだけれど、一人すこしずれた世界に迷い込んだような遠い気分になって、私はそこからまだ完全には帰ってきていないような気がする。そういった場所に迷い込んでしまうたび、少しばかり自分を忘れてきてしまうような。

 朽ちて一部壊れかけてもいて、足を掛けるともしかしたら壊れてしまうかもしれないような、緑の芝がひたすらに広がる中にある木製の橋のような、建物の入り口に繋がる足場を、私はこの夢の記憶を繋ぎ止めるかのようにふわふわ歩いた。何度も。長年雨に打たれ続けてきたであろう木々が軋む、哀愁を誘う音は耳に響いたものの、壊れることはなかった。

 ほんのわずか数年前まで、多くの人々がこの場所を歩いて、毎日のように繰り返し歩き続けて生きていたのだ、何を考えて、何を思いながら。そう考えるともう色々なものが自分の中に雪崩込んできて、その場に崩れ落ちてしまうような。永遠に帰って来られなくなってしまう、これからもきっと、色々な場所から。


先日Twitterでぼけーっと打ったものをちょっと手直ししました。そういえば写真もたくさん撮っていたはず……と漁ってみたら思った以上に撮っていた。当時まだカメラを持っていなかったのでデジカメだけど。
でもカメラはどのレンズが良いか考えて装着して蓋外して、諸々設定をして、構えて、設定して、構えて、撮る!くらいの手間があるので、目の前の光景にうわ~!となっているとタイミングを逃して結局撮れなかったり、その手順が煩わしくてここは良いか……とスルーしてしまったりすることが多いけれど、デジカメだとここだ!と思った瞬間にすぐ撮れるので、その点に関して言えばどんなに高いカメラよりも優秀なのではないかな、と個人的には思っています……。
ここまで書いていて私デジカメの方が向いてるかもしれないと思いました。

2017.10.24

なにか感じていただけましたら、よろしければ。よろしくお願いいたします。