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どうして人間は解り合えると思ってしまうのだろうか

人間といういきもの
たとえねこちゃんのことを理解できなくてもそれが当たり前だし、理解できなくても できないからこそかわいいと愛でられる度量があるのに、
人間相手になると途端に「同じ人間という種だから」と同族意識を持ち、勝手に理解できると思い込み、理解したいと願うの、ほんとうに不思議。

ねこちゃんだってキジトラとか三毛とかいっぱい種類があって、種類によっても個によっても性格はそれぞれで、人間だって違いが見えても見えなくても無数に一人ずつの個があるのに、どうして「感覚を共有できる、理解し合える」と思ってしまうのか

もちろんひとの気持ちに寄り添いたいと願い想像することは、とてもこころが揺れる美しいことであり、私はそれができるひとのことを心から尊敬するのだけれど、それと「同じ人間だからきっと理解できる」という傲慢さを持っているということとはまったく別の切り離された話です。

他者に対して常に謙虚に、尊敬の念をもって生きたいと私は思っています。
「理解できない」という事実と意味を理解することこそが、人間同士がほんとうに解り合うということだと考えているし、それこそが他者に対する最大の敬意だと思っている。

何かあったわけではまったくないんだけどずーっと思ってること なんか急に言語化できてしまった
にんげんのふしぎ

私は自分のことを理解されたいとは微塵も思わないし誰にもできるわけないけど(自己肯定感エベレスト)、それはそれとして癖は理解されたい!!!!!!!!!!俺の癖を見ろ!!!!!!!!!
つまり「嗜好の方向性」が伝わるひとにだけ伝わってくれればそれでいい 好きなものが自分のアイデンティティでありすべてだから そう

遺伝子も育った環境も与えられたものもまったく異なるのに誰かが誰かを根本まで理解できるわけないじゃん 比較もそう。そも土台が異なってるんだから遺伝子同じクローンかつ生育条件もすべて同じにしないと比較なんて成り立たないのだ

でも、それでも理解り合いたいと願ってしまうのが人間の愚かさであり最大のロマンの部分であり、私は最強のロマンチストなので、その愚かで青い無意味さ、淡さ、儚さがエモくて大好きなんですけれども

私はじつに愚かです。あなたと理解り合える風が吹いたような気がしてしまった。

という具合に。

なにか感じていただけましたら、よろしければ。よろしくお願いいたします。