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【積読を買いに⑥】積読に関する考え方

前回までのあらすじ

本屋めぐりをしている。前回はハリ書房。

積読のプレッシャー

昔は積読が少し怖かった。
読みたくて買った本が、実際に購入して部屋の片隅に置いた瞬間に、こなさなければいけないタスクのように感じられる。読書は楽しい趣味であるはずなのに、やるべきことをやっていないときのような焦燥感に駆られる。
「本を読みたいのに読む時間がない」
がいつしか、
「本を読まなければいけないのに読めていない、そんな自分は読書家を名乗る資格はないのではないか」
と、アイデンティティを脅かす存在に変わっていってしまう。
SNSの読書アカウントを見ていても
「本を読めていない」
という焦燥感を語るアカウントが少なくないので、私だけの感覚ではなかったのだろうなと思う。

積読の意義

今では、買うことと読むことは別のフェーズであって、セットである必要はないと考えるようになった。

いつの間にかそう考えるようになっていたような気がするが、一番大きい理由はビジネスの世界にどっぷり浸かっていたことだろう。
自身がモノやサービスを提供してきた経験を振り返ると、お客さんが買ってくれる瞬間がまず最初のクライマックスで、お客さんが喜んでくれる瞬間が第二のクライマックスだ。
買ってくれるだけでもとりあえずうれしいし、第一のクライマックスがあって初めて第二のクライマックスが訪れる可能性が生じる。

だとすれば、作家・出版社・書店も、わたしが買った時点で第一のクライマックスを感じてくれるだろうし、買うことで初めて読むことができるのだから、むしろ買うことのほうが重要なアクションなのではないかと思えてきたのだった。

まどろっこしい言い方をしたが、要は自分の好きな業界が盛り上がればとりあえずそれでいっか、という考えになってきたのだ。

理想

最近こんな発言をSNSで見て、これが理想の状態だなと思った。

子どものころの夢は、図書館の隣または上層階に住むことだった。
今の夢は書庫を作ることである。本屋さんになりたいと思ったこともあるが、突き詰めていくと本を仕入れて売りたいというよりは本に囲まれて暮らしたいというのがその根源にあった。それならば、書庫でいいじゃないかと思うようになった。

後者の記事の、この部分が好きだ。

「任梟盧」を作るにあたり、草森さんは設計者の山下和正氏に次のような注文を出している。

「できるだけ本が狭いスペースに収容できること、(略)「内臓空間」を表現すること、この塔の側を通る子供たちが見て、大人になっても奇妙な塔の記憶が残るようなフォルムを造ること」(『太陽』1981年11月号)

読書家の奇妙な趣味が、次の奇想家を生むのではないかという連想が広がる。

今はとりあえず、いつか建築する書庫に詰め込むための書籍を、一冊一冊と買い貯めていくのだ。

※この文章はセミフィクションです。今後登場する書籍・書店・ブックカフェは実在しますが、それ以外は「わたし」含め実在の人物や団体などとは関係ありません。

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